13代明宗ミョンジョンの悲劇!母の言いなりで短命な性格は父親譲り

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明宗アイキャッチ

518年にも及ぶ長きに渡る朝鮮王朝時代では
実際も27代の王が常に骨肉の争いで王座を巡って
争った事が現代でもドラマで語られています。

そんな朝鮮王朝の中でも今回は13代王の明宗
(ミョンジョン)が実の母親によって王位に
就かされ、そして常に生涯をその母に振り回された
悲劇の王でした。

彼は王の才能がある男性でしたが、母は歴史に名を
残す悪女と呼ばれた皇后で「毒親」だったため、
そんな母に人生を狂わされた悲劇の王でもあります。

今回は朝鮮王朝13代王の明宗(ミョンジョン)についてを
詳しくお伝えしていますので、ぜひご覧ください!

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目次

明宗(ミョンジョン)プロフィール

名前:李峘(イ・ファン)
在位:朝鮮王朝13代王・明宗(ミンジョン)
在任期間:1545~1567年(22年)
生年月日:1534年7月3日
死亡:1567年8月3日(33歳)
両親:父は朝鮮王朝11代王・中宗(チュンジョン)、母は文定王后尹氏(ムンジョンワンフ・ユンシ)
妻:正妃は仁順王后沈氏(インスンワンフ・シムシ)、側室は1人
子供:1人(順懐世子)

明宗が王になったのは母の執念

明宗
腹違いの兄であり、朝鮮王朝12代王であった
仁宗(インジョン)が亡くなったことで13代王
として即位した明宗(ミョンジョン)。

亡くなった仁宗には子がいなかったので異母弟
である明宗が王位に就くことになりましたが
彼が13代王になるまでには母である文定王后
ただならぬ執念と策略と悪行の数々がありました。

文定王后は、仁宗(インジョン)を出産して
すぐに亡くなった章敬王后(チャンギョンワンフ)
の次に彼らの父親であった11代王中宗(チュンジュン)
の正室になった女性です。

当初は継子でありましたが幼い仁宗をそれなりに
可愛がっており、そしてそんな2人の関係文定王后を
実の母親のように慕っていた仁宗。

二人には何の問題がないように見えましたが、
文定王后の野心が見えだしたのは彼女が息子の
明宗を産んでからでした。

元々野心の強い女性だったので、王子を産んだことで
「継子よりも、自分が産んだ子を王に」
強く望むようになったのです。

しかし、朝鮮王朝は跡継ぎは長男というのが
常識であり、このままではどう足掻いても次男である
自身の息子、明宗が王座に就くことはありません。

そこで文定王后が考えたは世にも恐ろしい

「邪魔者を排除する」という選択でした。

つまりは、1番の王位継承権を持つ長男の仁宗を
殺してしまおう、ということだったのです。

彼女の凄い所は、それを思いつき実際に具現化
して実行しているところです。

文定王后は手先を使って仁宗の屋敷に火をつけるなど
して暗殺を何度か試みたりと、とにかく執拗に仁宗の
命を狙っていました。

心優しい仁宗が育ての継母が幾度も明らかな暗殺
行為を働いているとわかっていても見てみるフリを
して最後まで文定王后の顔色を伺っていたと言います。

疑う事を知らぬ、と言うか気が付いていても咎める事が
出来ない程優しい性格の仁宗王の性格も災いでした。

結局はされるがままに継母の手にかかり仁宗の即位から
僅か8ヶ月後、文定王后はついに仁宗を毒殺します。

仁宗は元々体が弱かったので病死したのではとも
言われていますが、文定王后が仁宗の命を執拗に
狙っていたのは宮廷内の誰もが知っていましたし、
仁宗が体調を崩す直前に文定王后から勧められた餅を
食べていることなど、暗殺説がかなり濃厚だったようです。

こうして12代王、仁宗を退場させることに成功した
文定王后は、我が子である明宗を王座に就かせる
ことができました。

継子の命を奪ってまで我が子を王座につかせようと
する執念は、本当に恐ろしいものがありますよね…

明宗の悲劇は母が命運を握った事

文定王后

先ほどもお伝えしたように、文定王后は我が子で
ある明宗を王座に就かせるためには手段を選ばない
野心あふれる女性でした。

いつの時代も何処の国にも、子を思うがあまり、
または子を踏み台にして自分の願望を果たそうと
する親がいるように、文定王后もそんな親だったのです。

そんな文定王后を母に持ってしまった13代王、明宗は
母の執念によって13代王に就きましたが、即位時の彼は
まだたったの11歳でした。

現代の日本でいうと、まだ中学生にも上がらないほどの
年齢で王となった明宗は、母である文定王后に摂政を
勤めもらいながら政治を行うことなります。

判断能力が乏しい未成年の王が母に摂政を勤めて
もらうとは珍しいことではありません。

ですが母である文定王后の場合は明らかに「狙った感」
がある上に、実権を握ったのを良いことに、自分の
好きなように権利を振るいました。

実の息子である明宗も先代の腹違いの兄仁宗王と同じく
元々頭がよく、心が優しく又気も弱かったと言われて
います。

母親が朝鮮王朝時代1~2を争う悪女と呼ばれる程の
女性でありながら明宗も先代の仁宗も気弱で心優しい
見方によっては優しすぎる王だったのです。

当然明宗王も物心つく頃には母が摂政の立場で政治を
利用し好き勝手やっているのを理解し、心を痛めていました。

しかし、強烈な性格をしているとはいえ自分の
生母である文定王后に逆らうことはできず、
言われるがまま過ごすことになります。

時に明宗が母の政治に意見をしても文定王后は
あろうことか王である明宗の顔を引っぱたく
さえあったと言われています。

あの時代にあっても実の息子とはいえ王の顔を
引っぱたくなど、あり得ない愚業ですが、それでも
そうした行為を強く咎める事も明宗にはできる
性格ではありません。

成人後もその関係性は変わらず、気が優しい明宗は
いつまで経っても文定王后の言いなりになって
しまうのです。

文定王后は、現代で言うところの「毒親」と
いうところでしょうか…

民を統べる立場で息子の生母という立場なら、
それなりの振る舞い方というものがありますよね。

しかし文定王后は、逆にその立場を利用して
己の欲望のままに国を好き勝手していたのです。

そんな毒婦も所詮は人間なので、1565年に
この世を去ります。

心の枷であった文定王后が亡くなったあと、明宗は
文定王后の私物化とした政権を改めようと尽力し、優秀な
人材の採用や文定王后の息がかかった官僚の免職に奔走し
より良い政治を行おうとしました。

結局、文定王后が亡くなった2年後に33歳という
若さで明宗は亡くなってしまいます。

もしもっと早い段階で文定王后の呪縛から解き放たれて
いれば、明宗はもっと長生きして、歴史に名を残す名君に
なっていたかもしれませんね。

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明宗の性格は父親譲り?

父親中宗

前の章でも少し触れたように、明宗は頭脳明晰で
心の優しい王でした。

母である文定王后は野心ばかりの激情の
女性でしたが、父である11代王、中宗(チュンジュン)
もとても優しく情深い性格で優柔不断だったとも
言われています。

ちなみに中宗は棚ぼたの王と揶揄された王でも
あります。

そしてその息子の第一の王位継承で12代王と
なった任宗もまた気持ちの優しすぎる王で何度も
明らか過ぎる継母文定王后の自分への殺害未遂を
見て見ぬふりをして最後は毒殺されています。

結局、文定王后だけが孤立して気が強く息子の
明宗も継子だった先代の仁宗も、父親だった中宗に
よく似た性格をしていたのがよくわかります。

腹違いの兄仁宗や父親には似て母親の文定王后には
何一つ性格的なモノは似ていなかった。

文定王后の夫であった中宗(チュンジュン)も
まだ健在の頃から明らかなる彼女の愚業を目に
しながら諌めることができず無能王と呼ばれて
いました。

彼女の継子のだった12代王、仁宗は彼女を親として
配慮しすぎたあまりに殺されしまい、実子である
明宗は母である彼女に逆らえず長らく言いなりの身…

明宗がもっと強い気持ちを持って文定王后に接する
ことが出来たら、もしかしたら兄の仁宗も死なずに
済んだかもしれません。

また、仁宗の悲劇が避けられなくても、明宗の即位から
文定王后が亡くなるまでの彼女の権利の私物化は防げた
かもしれませんね。

先ほどもお伝えしましたが、明宗は33歳で亡くなって
おり、当時の朝鮮王朝にしても早世です。

きっと、母である文定王后の存在や行動が心優しい
明宗を長年苦しめ、結果として母の存在が大きな
ストレスとなり、明宗を短命した原因になったのでは
ないかと言われています。

それほどまでに文定王后の悪行ぶりが凄まじかった
と歴史に明確に残されているのです。

歴史に名を残す悪女として語り継がれる文定王后を
野放しにした三代に続く王の唯一の罪は中宗は妻であり
仁宗は継母、明宗は実の母であった彼女を野放しに
した事が1番の罪だったと言えるのかもしれません。

朝鮮王朝時代において彼女が政権を意のままにした
この時代が1番劣悪な政治で民が困窮に喘いだと
言われています。

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おわりに

ここまでお伝えしたように、明宗は母親が文定王后という毒親であったことから人生が大きな波乱に飲み込まれたことがよくわかります。
自分のためか、または息子のためかはわかりませんが、継子である仁宗の暗殺を文定王后が目論むようになってから、明宗の人生は大きなうねりを見せはじめました。
この時点で明宗はまだまだ子供でしたが、勇気を持って母を諌め、自分の意思で動くことができたら…兄王は死なずに、自身も早死にしなかったかもしれません。子は親を選べないというように、明宗も母を選べなかった上に、性格まで優柔不断で優しい父に似てしまった以上は
避けられない運命だったのかもしれませんね。


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