光海君15代王になった理由は秀吉の朝鮮出兵!廃位後の最後が悲惨

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光海君

520年近く続いた朝鮮王朝の27人の王の中
でも廃位となった、ただ二人の王の独りと
して知られる光海君。

15代王の光海君(クァンヘグン)が暴君と
呼ばれた理由には朝鮮王朝で繰り返された
骨肉の争いが壮絶だったことと無関係では
ありませn。

光海君とはどんな王だったのか嫡子を強く
望みながら庶子である光海君が王座に就いた
馴れ初めと、その最後が廃位と言う悲惨な
結果となったのか追ってみようと思います。

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光海君プロフィール

名前:李琿(イ・ホン)
在位:朝鮮王朝15代王・光海君(クァンヘグン)
在任期間:1608~1623年(15年)
生年月日:1575年6月4日
死亡:1641年8月7日(66歳)
両親:父は朝鮮王朝14代王の宣祖(ソンジョ)
母は恭嬪金氏(コンビン・キムシ)
妻:正妃は廃妃柳氏(ペピ・ユシ)、側室は9人
子供:2人(1男1女)

光海君が15代王になった理由

光海君

光海君(クァンヘグン)は、1575年に朝鮮王朝
14代王の宣祖(ソンジョ)とその側室である恭嬪金氏
(コンビン・キムシ)の次男として生まれました。

王の血を引くとはいえ側室の子だったので、光海君と
その兄である臨海君(イメグン)は嫡子ではなく庶子。

当時の彼らの立場は王位とはほぼ無縁でした。

本来側室の子は王位を継承する立場ではないのですが、
宣祖と正室のあいだには子が産まれなかったため
光海君に王位継承権が回ってくることになります。

正室から後継者を出せないのであれば、側室との
子を次期王とするのは仕方がないことです。

実は嫡子でないものの王となった光海君の父
14代宣祖こそが、嫡子でなかったばかりに王となっても
形見の狭い想いをしてきたからこそ尚更、次の王には
同じ轍を踏ませない為にも嫡子を世子にする、との想いが
強かったようです。

「長子が王になるべし」と考える朝鮮王朝では
本来なら長男である臨海君のほうが次男の光海君よりも
王位に近いものですが臨海君はかなり気性が荒く、
問題行動がとても多い男でした。

そのため「臨海君は王には不適合」
言われていたのです。

また、それに加え次の章でお伝えする出来事により
臨海君は完全に王座レースから完全に離脱すること
となり、結果として次男である光海君が世子と
なったのです。

兄臨海君の運命は秀吉で変わった?

秀吉

先ほどもお伝えしたように、光海君の兄である
臨海君は本来であれば次男の光海君よりも王位に
近い立場にあったはずでした。

しかし結果としては弟である光海君が15代王となり、
臨海君が王座に就くことはありませんでした。

ですが元々人間性に問題が多かった臨海君とは言え、
これまでの「長子が王に」という朝鮮王朝の習わしを
考えると「長男」という強みがまだまだあった臨海君。

この時点ではまだ完全に王位に就く可能性がゼロに
なったわけでもなかったのですが、後に臨海君が王に
なれなくなった決定的な出来事が起きます。

その出来事には、日本の戦国武将として有名な
豊臣秀吉が深く関与しています。

豊臣秀吉は、1591年にいわゆる「唐入り」
決行を宣言し、1592年には朝鮮半島に出兵を
開始しました。

(日本では「文禄の役」、朝鮮王朝では「壬辰倭乱
(イムジンウェラン)」と呼ばれている)

唐入りが行われた当時は14代王である宣祖が
朝鮮王朝を治めており、その息子である臨海君や
光海君も王族として国を守るべく決意を固めていました。

この豊臣秀吉の唐入りによる朝鮮出兵で光海君は義兵を
奮起するなどして戦果をあげ、朝鮮王朝に大きく貢献します。

しかし一方の臨海君は、豊臣秀吉の忠臣である
日本の名将、加藤清正に捕まり、こともあろうか
捕虜となってしまうのです。

その後、捕虜となった臨海君は、加藤清正が各地に
移動するたびに連れ回され、豊臣軍が朝鮮王朝に対して
有利に交渉を進めるための材料にまでされてしまいました。

この戦で手柄を立てて「我こそが次期王!」と
なりたかったはずの臨海君でしたが手柄を立てるどころか
朝鮮王朝にとってのお荷物になる始末…

臨海君はこれまで感じたこのないほどの屈辱を
味わったことでしょう。

その後釈放された臨海君は敵の捕虜になり朝鮮王朝の
足を引っ張ったことが心の傷となり、更に酒におぼれ
とても荒んだ生活を送り、さらに評価を落としていきました。

前述したように、元々問題の多い臨海君でしたが、
この豊臣軍に捕まったことで大きく運命が狂わされ、
王座は完全に遠いものとなってしまったのです。

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光海君の政治手腕は凄かった

1608年、父の宣祖が亡くなり結局は嫡子だった
永昌大君が、まだ幼く2歳だったことから庶子の
光海君が33歳のときに朝鮮王朝15代王に即位します。

光海君は兄である臨海君との2択の消去法で王座に
就いたイメージがちょっとありますが、頭脳明晰な上に
政治的手腕が素晴らしい外交に長けた王でした。

かつては争った日本(当時の江戸幕府)との国交の
回復を務めたり、明と後金の争いを上手く立ち回って
朝鮮王朝にとっての最悪の事態を回避したりなど
王としての外交能力は確かなものだったのです。

特に明と後金の争いでは過去に借りのある明の要求を
飲みつつも強い軍事力を持つ後金にも反感を買わないように
ちゃんとフォローしたりと、

一歩間違えたら取り返しのつかないことになる
二股外交を見事成功させたのです。

このように素晴らしい政治的手腕を持ち、外交を行こなった
光海君ですが、彼はクーデターによって王位から退くことと
なります。

一体なにが原因でクーデターが起き、光海君は廃位
となったのでしょうか?

光海君のクーデターと廃位

クーデター廃妃

1623年3月13日、兄である臨海君を指示していた
西人派たちは、仁穆大妃(インモクワンフ)と綾陽君
(ヌンヤングン)を担ぎ出し、光海君に対してクーデターを
起こしました。

宣祖の2番目の妻だった仁穆大妃(インモクワンフ)は
1606年に息子である永昌大君(ヨンチャンテグン)を
生みます。

宣祖54歳の時の息子で初の嫡子の存在でした。

この永昌大君(ヨンチャンテグン)こそ14代宣祖
待望の初の嫡子でしたが、同じ父を持つ側室の子
である光海君が即位したあとに永昌大君を

「脅威となりえる存在」とし、永昌大君や
その母である仁穆大妃、彼らに味方する一派を
光海君の一派が一掃します。

宣祖が1608年に亡くなった後1609年に
まず先の光海君の実の兄である臨海君を殺害。

その後1614年腹違いの永昌大君を殺害。

この時、永昌大君数えで9歳の子供でした。

しかも永昌大君は姉の貞明公主とともに庶人へと
降格され江華島へと流刑された先での殺害です。

その殺害内容が残酷でオンドル部屋に監禁された状態で
蒸し焼きの刑
に処され、実父も反逆罪で賜薬に処せられ、
その他の親族や一族もそれぞれ処刑や流刑に処されています。

仁穆大妃の光海君への憎しみや恨みは尋常では
ないほどだったそうです。

また、後に朝鮮王朝16代王仁祖(インジョ)となる
綾陽君は光海君の甥でありましたが、かつて光海君
一派に弟を謀殺されており、彼も仁穆大妃と同じように
光海君を大層恨んでいました。

このように光海君に対しそれぞれの憎しみを抱えていた
2人が中心となり、光海君へのクーデターを実行します。

このクーデターの大義名分としては、永昌大君や
臨海君などの兄弟を殺したこと、外交で恩のある明を
裏切り後金と通じたこと、仁穆大妃を幽閉したことなどとし、
光海君へのクーデターを実行・成功させたのです。

綾陽君はとても用意周到にクーデターの準備をしており、
虚を突かれた形になった光海君は大した抵抗もできず
あっという間にクーデター軍に捕まりました。

その後、光海君は廃位された末に流刑となり、
綾陽君に王の座を引き渡すことになったのです。

こうして光海君は、10代王の燕山君(ヨンサングン)
に続き朝鮮王朝で廃位となった王の2人目となって
しまいました。

まさに骨肉の争いの悲惨な結果が自身の廃位と
言う最悪の結果を生んでしまったのです。

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光海君の最後は悲惨だった?

綾陽君率いるクーデター軍に捕まり、あっと
いう間に廃位となった光海君。

人々から相当な恨みを買っていた光海君は、
その後、悲惨な運命を辿ることになります。

廃位後の光海君は、彼の廃位と同時に廃妃となった
妻の廃妃柳氏(ペピ・ユシ)や息子夫婦と一緒に江華島
(カンファド)へと島流しにされました。

死までの生活はとても質素なもので、これまで宮廷で
優雅な暮らしをしていた息子夫婦たちにとっては
とても過酷なものだったのでしょう。

そんな生活に耐えられなくなった息子らは、こともあろうか
島からの逃亡を図りますが、結局は失敗に終わり、死罪と
なってしまいました。

しかし光海君の悲しみはそれだけでは終わりません。

息子の死や今後も生き恥を、さらし続けることに
絶望した妻の廃妃柳氏は、息子の後を追うように首を
吊って自ら命を絶ってしまったのです。

妻も息子も失い、とうとう1人になってしまった
光海君ですが彼はまだ生きる希望を捨てて
いませんでした。

ですが、動き出した悲惨な運命はさらに加速して
いくばかりで、光海君はその後「極悪人の流刑地」
として人々から知られた済州島(チェジュド)へと
更なる流刑となりました。

いくら廃位になったとはいえ、かつて王として
君臨してた尊い身分の光海君がまさか極悪人たちの
行きつく島に流されるなんて…

さぞ屈辱的だったことでしょう。

さすがの光海君も済州島活きには絶句しざる
得なかったようです…

その後、光海君は1641年に66歳で亡くなりますが、
流刑となってから18年も生き、歴代の王の平均寿命から
見ても割と長寿でした。

生きる希望と覚悟を持っていたからこそ長く
生きられたのでしょうが、それだけ屈辱を感じ、
苦しむ時間も長かったと言えます。

さいごに

圧倒的な武力を持つ豊臣秀吉軍との戦いで功績をあげ、兄の臨海君に大きな差をつけて15代王となった光海君。
政治手腕も素晴らしく、王としてはとても優秀でしたが、自分の邪魔になる存在は兄弟であろうと容赦なく手にかけたことで恨みを買い、結局王座を追われ、悲惨な最期を迎えることになりました。
王になるため、そして反乱因子を取り除くためには仕方がなかったのかもしれませんが、もっと別のやり方を取っていたらこんな最後を迎えなかったかもれませんね。それだけ人の恨みつらみは恐ろしいんだと言う結果の表れなのでしょう。王としての実際の光海君の功績や実績はその座にふさわしい人物だったと言い伝えられる事からも素質だけでは王の座を守れないと言う奥深さを感じざる得ません。


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