12代王仁宗は最も座位の短い王!父が放任した義理母の熾烈な野心

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仁宗アイキャッチ

朝鮮王朝518年の歴史の中には27人の王が
存在し、単純に平均すると1人あたりの19年
ほどになりますが、王によって在位期間は様々です。

21代王の英祖(ヨンジョ)の朝鮮王朝最長
在位期間の52年間を始め、19代王粛宗スクチョン
の46年、26代王高宗(コジョン)の44年など、
長期王政となった王もいますが、なかには極端に
在位期間が短い王もいます。

特に12代王仁宗インジョンは、在位期間
8ヶ月と不自然なほど短い在位期間でした。

一体何があって、こんな早々に王座を退く
ことになったのでしょうか?

今回は、朝鮮王朝12代王仁宗(インジョン)
についてをお伝えしますので、ぜひご覧ください。

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目次

12代王仁宗プロフィール

名前:李峼(イ・ホ)
在位:朝鮮王朝12代王・仁宗(インジョン)
在任期間:1544~1545年(8ヶ月)
生年月日:1515年3月10日
死亡:1545年8月8日(30歳)
両親:父は朝鮮王朝11代王・中宗(チュンジョン)、母は章敬王后尹氏(チャンギョンワンフ・ユンシ)
妻:正妃は仁聖王后朴氏(インソン ワンフ・パクシ)、側室は4人
子供:0人

仁宗は最も座位の短い王

仁宗の生い立ち
冒頭でもお伝えしたように、第12代王
仁宗の在位期間は8ヶ月と異様に短く27代居た
朝鮮王朝で最も座位が短い王です。

即位時の仁宗は29歳ととても若く、王としての
活躍するのはこれからというところでしたが、
生まれつき体が弱かったため、思うように政務が
行えませんでした。

また、父である11代王中宗の死後、仁宗はさらに
体調を崩してしまい即位からおよそ8ヶ月で
亡くなってしまいます。

ですがこの死因については、病死のほかに毒殺説
(詳しくは後述します)があり、韓流時代劇ドラマ
「オクニョ 運命の女(ひと)」でも仁宗の毒殺説
について触れられています。
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あまりにも早く亡くなり、朝鮮王朝最短の座位期間
となった仁宗ですが、彼はいったいどんな人だったの
でしょうか?

次の章では仁宗の人となりと評判をお伝えしていきます。

仁宗の人となりと評判

仁宗の評判

仁宗はとても人徳があり、頭脳も明晰で人々から
とても期待されていた王でした。

先々代の10代王の燕山君は朝鮮王朝最悪の王と
呼ばれるほどの暴君で今に語られています。

そして仁宗の実の父である先代の11代王の中宗
臣下の言いなりの名ばかり王状態だったので、誰もが
仁宗が王として治める時代は素晴らしいものになると
思っていたでしょう。

また、仁宗は大変な親孝行者としても有名です。

重病を患った父の中宗を丈夫でない体に鞭を
打って必死に看病したり、病気を治す願掛け
として絶食したりました。

絶食して弱っていく仁宗を心配した大勢の臣下の
必死の説得によってようやく少しだけお粥を
食べたそうですが、絶食なんてなかなかできる
ことではありませんよね。

結局、仁宗の努力の甲斐なく中宗は亡くなって
しまいますが、仁宗の親孝行である様は多くの
人々の心を打ちました。

このように愛情深く優しい人となりの仁宗でしたが、
誰からも愛されていたわけではありません。

とても朗らかな青年だったことが分かるのが
「師任堂サイムダン~色の日記」でも仁宗王の
人間性が良く描かれていると思います。

お次の章では、仁宗の存在を誰よりも疎んでいた
継母である文定(ムンジョン)王妃についてを
お伝えします。

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仁宗の死は継母文定王妃の野心の結果だった

継母文定王妃

仁宗は生まれつき体が弱く、病弱だったので
若くして亡くなったのも「病気が原因だったのかな?」
と思う人もいるでしょうが、実はその死因は毒殺によって
暗殺させたという説が濃厚だと言われています。

しかもその暗殺の首謀者は、仁宗の継母である
文定(ムンジョン)王妃
と言われています。

文定王妃は中宗の3番目の王妃で、世子であった
仁宗の継母となって育て世話をしていました。

最初こそは仁宗を可愛がっていた文定王妃ですが、
もともと野心が強かった彼女は自身が男児を産むと

「仁宗ではなく、我が子を王にしたい」

と望むようになります。

しかし「後継ぎは長男に」という考えを重んじる
朝鮮王朝では、長男である仁宗がいるかぎり、次男
である文定王妃の子は王どころか世子にもなれません。

そこで文定王妃が考えたのが

「世子である仁宗を亡き者にしてしまえ」

という恐ろしいものでした。

「お腹を痛めて我が子を大物(王)にしたい」
という気持ちはまだわかりますが、可愛がっていた
継子の暗殺を目論むようになるなんて、文定王妃は
自分の野心を叶えるためには手段を選ばない女性だった
のです。

そして文定王妃は仁宗を暗殺するべく、手先に
命じて仁宗の屋敷に火をつけさせます。

結果として放火による暗殺は失敗しますが、懲りない
文定王妃はその後も仁宗の命を狙い続けるのでした。

仁宗自身や周りの者も文定王妃が暗殺を目論んで
いるのは知っており、王であり父である中宗もその
文定王妃の目論見を知っていましたが…

希代の暴君、燕山君を王座から引きずり降ろす為に
王座に担ぎあげられ王座に付いてその座を退くまで
終始回りの臣下の言いなりになるだけ。

「棚ぼた王」と言われる程、性格的にも無欲で気弱な
王と言われた中宗は文定王妃も放任して罰することも
しなかったのです。

そのため、文定王妃の熾烈な野心による行動は
とどまることはありませんでした。

中宗の優柔不断で意見をハッキリ言えない性格も
災いしているのでしょうが、列記とした王位継承である
我が息子の暗殺を謀る程の悪行を見過ごしたのは王である
中宗の落ち度と言えるでしょう。

時は流れ、中宗が亡くなっていよいよ仁宗が
王となりますが文定王妃はまだ「我が子を王に」
という野心を諦めてはいませんでした。

1545年、文定王后は祭祀(チェサ)の後に
仁宗に「自分のところに来るように」と伝えました。

体調が優れない仁宗を心配した臣下たちが
行かないようにと止めますが、仁宗は
「親からの呼び出しだから」と周囲の反対を
押し切って文定王妃のもとを訪ねます。

そして文定王妃は訪ねてきた仁宗に餅を
食べるようにすすめ、2人で世間話をしました。

いつも自分に冷たい義理母が上機嫌に接して
くれて嬉しくなった仁宗は喜んで文定王妃が
すすめてくれた餅を食べましたが…

その日から仁宗は下痢や高熱に悩まされる
ようになり、数日後にはさらに悪化して意識を
失ってしまいます。

察しの良い方はもうお分かりのとおり、このとき
文定王妃がすすめた餅には仁宗を殺害するための
毒が含まれていたと言われているのです…!

文定王妃は臣下から仁宗の様子を聞いても
取り乱すことなく、見舞いそっちのけで王宮外に
外出をすると言い出したりと周囲を混乱に陥れました。

その後、仁宗は、周りの看病のおかげで一時は
意識を取り戻しましたが病状が快方に向かうことはなく、
即位からわずが8ヶ月ほどで死亡します。

熾烈な野心を持ち、ヘビのようなしつこさで自分の
命を狙い続けた文定王妃にとうとう仁宗は亡き者に
されてしまったのです…

仁宗に子はいなかったので
(継母の野心を知りあえて子作りしなかったと言われている)

晴れて文定王妃の子が13代王明宗(ミョンジョン)
として王座に就きました。

義理母ではありますが、親として常に敬意を
払ってきた文定王妃に毒殺されてしまったと
言われている仁宗…

あまりにも悲しいこの結末は、仁宗が可哀そう
すぎますよね。

自分の父親である11代王の中宗が1544年に
そしてまだ若い仁宗は1545年父中宗の後を追って
この世を去る事になります。

享年30歳の若い王が僅か8カ月の座位を追われた
結果は継母であり希代の悪女と言われる文定王妃に
よる陰謀によって命を絶たれた事実は悲劇としか
言いようがありません。

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おわりに

人柄が良く人徳もあり、頭脳も明晰と王としての資質を兼ね備えていた12代王の仁宗。
ですが、いくら王としての才に恵まれていても、継母に命を狙われ続ける、父はそれを咎めず放置という状況は決して幸せなものではなかったことでしょう。その後、仁宗を毒殺したと言われている文定王妃は13代王明宗の生母、そして大妃として王宮で大きな権力を握ることになります。義理の息子の命を犠牲にしてまで自分の野心を叶えた文定王妃はまさに朝鮮王朝史上でも稀にみる「悪女」と言えるでしょう。
あまりにも早い死によって朝鮮王朝最短の座位期間となりましが、仁宗がもっと長く生きていれば、きっと朝鮮王朝の歴史に名を残す聖君になっていたかもしれませんね。


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