明治天皇のすり替え説の真実と根拠や側室の子で皇后の驚愕の事実が

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明治天皇がすり替えられていたという
話についての根拠や、明治天皇が側室の
子だったという話があるそうです。

しかも噂の領域を出た証言の数々も・・

今は亡き皇族の家系図に側室が許された
時代の皇后にも関わる正室側室の話など
謎に包まれた明治天皇のすり替えの信ぴょう性
など調べてみました。

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目次

明治天皇のすり替え説の真相と信憑性とは?

 

明治天皇といえば、明治維新前後に即位され
日清・日露戦争を戦った歴史的にも重要な
役割を持たれていた天皇です。

その明治天皇が「ある時期に別人にすり替えられた」
という説というか、噂?都市伝説?があるのは
ご存知でしょうか?

明治天皇すり替え説ってどんな内容なのか?

そもそもこの説が起こった切っ掛けというのは
どうやら昭和4年に、田中光顕(たなかみつあき)
という方が
「もう知っているのは私だけだから…」
 
と、語ったことが始まりだったようです。
 
その話によると

「ある時点で明治天皇に即位した睦仁を毒殺し、別人にすり替えた」
 
のだといいます。
 
田中光顕は11年間にわたり、宮内大臣を務めた
人物で、皇室内部の表裏を知り尽くした人だと
いわれています。

 
そんな人物が「天皇すり替え」を語った為
その話を聞いた人が書籍として出版して
一般にも広まったそうです。

では、いったい誰と入れ替わったのか。
 
田中光顕の証言によれば、

「すり替え後の明治天皇は大室寅之祐(おおむろとらのすけ)という人物である」
 
と、言っています。
 
この大村寅之祐という人は南朝の
血筋だそうです。

北朝南朝といえば、室町時代の話になのですが
この問題を日本皇室は近現代までずっと引きずって
いるのだとか。
 

室町時代に、後醍醐天皇が足利幕府と対立したため
天皇家は北朝(京都平安京)と、南朝(奈良吉野)
に分裂しました。

その後南北が合体して元に戻りますが、主導は
北朝であり、南朝は格下に置かれたまま江戸時代に
南朝は滅亡したと考えられてきました。

 
しかし、実は南朝の血統は滅んでおらず
その血筋に大室寅之祐が居るというのです。

そしてその南朝が明治維新前後の混乱に乗じて
密かに天皇をすり替え、主権を取り戻した

という話のようです。

 
また、そのすり替えを行ったのが長州藩
だとも言われています。

大室寅之祐のバックに居たのが長州藩で
幕末に長州藩の精神的指導者となっていた
松田松陰は「南朝正統論者」でした。

松田の弟子であった伊藤博文らも
その影響を受けていたと言われています。

そういった背景があり、長州藩出身者からすると
大室寅之祐を天皇にすることは
「師(松田松陰)の悲願である」
と考えられたのです。

明治天皇がすり替えられた説のまさかの根拠!

 

天皇をすり替えるというのは、普通の感覚で言えば
とんでもない事ですよね。

ドラマではないのですから、まず信じられません。
 
しかしいくつかの点で、睦仁と明治天皇が同一人物とは
思えない点もあるようです。

記録によれば、睦仁は内向的で、右利きで字が
下手だったそうです。

そして馬に乗るのも嫌うほど運動音痴だったといいます。
 
即位した後の明治天皇は、スポーツマンで
乗馬と相撲が好きで、左利きで字が上手かった。
 
なんとも正反対ですよね。
 
また、明治政府の役人たちが天皇を見下して
いたような話も残っています。

 
西郷隆盛は、わがままを言う明治天皇に対して
「昔の身分に戻しますぞ」等と叱っていたと
言われています。

また西郷隆盛の弟である西郷従道は、天皇の
命令を無視して台湾出兵なども行っており
伊藤博文も明治天皇の前でも座ったまま
だったといいます。

そして山岡鉄舟などは、相撲で明治天皇を
張り倒したともいいます。

これらの話から、側近達に軽んじられていたと
見る意見がありますが、もちろん反論する
意見もあります。

天皇家は元々徳川幕府から権力を奪られ
京都に閉じ込められていたのですが、討幕を
果たした明治維新功労者から見れば

「自分たちが権力の座に戻してやったんだ」

と、考えていた面もあるのではないか。

そうした気持ちが言動に表れていたと考えれば
なんとなくわからないでもない気がします。

また、政府にとっても、正統に続いてきている
睦仁を即位させ、天皇家の万世一系を保っていた
方が都合が良いはずですし、やはり簡単に
すり替え説を信じるのは難しいところかもしれません。

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明治天皇は側室の子?皇后に関わる驚愕の事実!

 

過去、子供が1人も居なかった天皇は
何人か居ます。

世襲君主制というのは、血を継承していく
という危うさを秘めたシステムとも言われます。

その安定を保つために、一夫多妻制
対応していました。

正室、側室という言葉はドラマ等でも
聞いた事があると思います。

その側室制度というのは、明治時代までは
普通の事だったのです。

事実、明治天皇も側室の子ですし、その父
孝明天皇も側室の子だそうです。

明治天皇の生母は中山慶子(よしこ)
といい、幕末に権大納言であった
公家中山忠能の娘でした。

今でこそ一夫多妻制と言うのは言葉を
聞いた事はあっても、実感することは
無いものですから、驚きもあります。

でも決して血を絶やさない施策として
手を尽くすのが正義とされた天皇家には
あってしかるべきの制度だったのかもしれません。

明治天皇すり替え説が書籍にもあった?

 

このすり替え説を扱った書籍も発売されています。

『明治天皇“すり替え”説の真相: 近代史最大の
謎にして、最大の禁忌』
(著)落合 莞爾,斎藤 充功

『二人で一人の明治天皇』(著)松重楊江

『天皇生前退位と神国・日本の秘密』(著)中丸薫
 
この辺りが有名です。

興味がある方、一度読んでみてはいかがでしょうか。

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おわりに

日本の天皇家が正しく継承されてきた世界最古の皇室であるという事は、日本の誇りです。明治天皇すり替え説については、オカルトや都市伝説のようなネタ話として楽しむくらいが丁度良いと思いますが真相は闇の中なのかもしれませんね。


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