仁祖インジョ息子暗殺と3度の逃亡!側室を寵愛し朝廷を狂わせた

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15代王、光海君からの政権奪還をクーデターによって
王位を得た16代王、仁祖インジョ。

しかし即位後の仁祖の政治とは全くの腐敗政治であり
王にはなってはいけない男だったと言われる程の無能
な政治を取った王として語り継がれています。

王としてあるまじき行為の3度の逃亡と、自らが招いた
政治責任の結果、実の息子まで逆恨みして暗殺した男
仁祖の行った政治とは。

また王妃を差し置いて寵愛した朝鮮王朝史に語り継がれる
悪女を側室に持った事も朝廷を狂わせた要因だったと
言われています。

如何にして仁祖が王になってはいけない王だったのか
仁祖の生涯を追ってみましょう。

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目次

16代王仁祖(インジョ)プロフィール

名前:李倧(イ・ジョン)
在位:朝鮮王朝16代王・仁祖(インジョ)
在任期間:1623~1649年(26年)
生年月日:1595年12月7日
死亡:1649年6月17日(53歳)
両親:父は定遠君(チョンウォングン)、母は仁献王后具氏
(インヒョンワンフ・クシ)、祖父は朝鮮王朝14代王の宣祖(ソンジョ)
妻:正妃は仁烈王后韓氏(インニョルワンフ・ハンシ)
継室は荘烈王后趙氏(チャンニョルワンフ・チョシ)
側室は4人
子供:7人(6男1女)

仁祖インジョはクーデターで王位に就いた

クーデター

朝鮮王朝は518年ものあいだ続き27人の歴代の王が
継承して発展してきた王族です。

その長い歴史の中には、3代王の太宗(テジョン)や
10代王の燕山君(ヨンサングン)のような暴君と呼ばれる
王もおり、現実は常に王座を巡る骨肉の争いの連続でも
あったのです。

そんな暴君たちと名を連ねるほどではないですが、
「この人は王の器ではなかった」と言われる王もおり、
16代王である仁祖(インジョ)もその1人となります。

仁祖(インジョ)が何故、王の器ではなかった
と言われる存在だったのか、まずは仁祖が王に
なった方法からお話しましょう。

通常であれば、朝鮮王朝の王は「嫡子」かつ「長子」
が継ぐのが習わしでしたが、仁祖(インジョ)は嫡子
でもなければその長子でもありませんでした。

仁祖の父である定遠君(チョンウォングン)は
14代王の宣祖の5男であり15代王の光海君(クァンヘグン)
とはの異母兄弟でした。

そのため、庶子とはいえ宣祖の次男だった光海君とは
叔父と甥っ子の関係。

宣祖の5男であった定遠君の子である仁祖は本来なら
王位継承権から庶子以前に、ほど遠い立場にいたのです。

そんな仁祖がなぜ王位に就けたのかというと
クーデターによって光海君から王座を奪い取った
からでした。

仁祖は当時王であった光海君の政策をよく思わない
西人派に、光海君を廃位させるための運動のシンボル
として担ぎ出されたのです。

仁祖は庶子であった光海君が王座に就く際に自分の
弟を謀殺されていたので、光海君への恨みは当然あり
王座から引きずり降ろす計画に乗るのに動機は十分
ありました。

光海君も王位に就くのに、嫡男の子であり異母兄弟
でもあった幼い弟永昌大君ら一派を殺害したり大妃を
幽閉
したりの骨肉の争いで王座についた王です。

父である先代の王、宣祖が世子を決めぬまま早世
した事も災いしましたが、当時の嫡男永昌大君は
2歳から3歳と幼すぎて王座に就くには及ばない年齢
だったのです。

それでも永昌大君を押す一派(小北派)と光海君を
押す(大北派)との争いの中でどうしても避けられず
身内での粛清があり王位についた光海君はかなりの
恨みを買ってその座についていました。

虎視眈々と狙われる王座を奪還したのが仁祖を
立ててのクーデターだったのです。

1623年3月、仁祖は(小北派)らの力添えもあり
クーデターを成功させ、見事に光海君から王位の
はく奪し朝鮮王朝の16代王となるのでした。

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仁祖インジョは前代未聞の3度の逃亡した王だった

3度の逃亡した王

クーデターによって王位に就いた仁祖。

光海君に続き、またも庶子出身の王なので、その存在を
認めていない者もいたので、そんな者たちを認めさせる
ためにもこれからが本当の正念場でした。

しかし仁祖は政治的な功績を残すどころか

「3度も国を捨てて逃亡した王」

という残念な汚名があります。

1度目の逃亡

1度目の逃亡

1度目の逃亡は、仁祖の即位後早々の1624年に起きた
「李适(イグァル)の乱」という内乱のときでした。

「李适の乱」の首謀者は李适(イグァル)という
武官で、光海君を廃位するためのクーデターの際に
活躍した人物です。

しかし李适はクーデターで尽力したにも関わらず、
仁祖から思うような恩賞を与えられなかったことに
大きな不満を抱いていました。

また、李适は国のために部隊を強くすることに力を
入れていたのに、

「熱心に部隊強化するのは反乱を起こそうとしているのでは?」

と疑われてしまいます。

ただでさえクーデターでの功績を認められず不満が
あったのに、さらには反乱を疑われた李适は、とうとう
本当に反乱を起こしてしまうのです。

李适の強化した部隊の力はとても強大で、どんどん王都の
漢陽(ハニャン・現ソウル)へと迫りくる李适に恐怖を
感じた仁祖はさっさと漢陽から逃げ出してしまいます。

王がいなくなった王都は反乱軍の手に落ち、反乱
19日目で漢陽は反乱軍に占領されることになりました。

このまま反乱が成功してしまうのかと思われしたが、
政府軍もこのまま黙っているわけがありません。

反撃の機会を伺っていた政府軍に反乱軍はあっさりと
破れ漢陽を奪還、首謀者である李适は処刑されてこの
反乱は終息しました。

2度目の逃亡

2度目の逃亡

先の内乱である「李适の乱」は国の情勢を乱した
だけでなく「王が民を見捨てて逃げた」という
大きな衝撃を民に残しました。

民は王に対する不信感を持ち、王の評価は良いもの
ではありません。

そんな中、再び仁祖は国を捨てて逃亡する事態に陥ります。

李适の乱から3年が経った1627年、朝鮮王朝は
他民族である後金から侵攻されることになります。

先王の光海君は、明と後金の「中立な立場」として
両方と上手く付き合ってきましたが、光海君の廃位後
仁祖と彼を支持する西人派はその中立の姿勢を捨てて
後金との貿易を打ち切り、明の顔色ばかり窺うように
なっていました。

そんな朝鮮王朝の様子に当然、後金は憤りを感じ、
とうとう「丁卯胡乱(ていぼうこらん)」を起こします。

朝鮮王朝は「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」の際に
受けたダメージが残っている上に、後金からの侵攻を
迎え撃つ準備をしていなかったのであっという間に
漢陽へと攻め込まれ、仁祖は2度目の逃亡を図ったのです。

結局は後金を兄とする兄弟国としての盟約を結ぶことで
侵攻は終わりましたが、2度も国を捨てて逃亡する
仁祖に誰もが失望していました。

3度目の逃亡

3度目の逃亡

丁卯胡乱が終息し、兄弟国として交流していくことに
なった後金と朝鮮王朝。

しかし、これですべて丸く収まったわけではなく
再び後金と争うことになってしまいます。

1636年、後金は国号を「清」に改め、主であった
ホンタイジは皇帝を名乗るようになりホンタイジは
朝鮮王朝に兄弟関係ではなく「臣従」するよう要求
しました。

しかし仁祖はそんなことを許せるわけもなく
朝鮮王朝は清の要求を拒否、清を

「蛮夷(ばんい・野蛮人の意)」と呼びました。

この行いを不快に感じたホンタイジは朝鮮王朝に
謝罪を要求しますが拒否されたので自ら10万の兵を
率いて朝鮮王朝に侵攻を開始します
(丙子胡乱(へいしこらん))。

またしてもあっという間に漢陽に攻め入られた仁祖は
ここで千陣をきって戦うならまだしも、まさかの3度目の
逃亡を図ったのでした。

仁祖は抗戦するために江華島(カンファド)へ
逃れようとしますが清軍の侵攻スピードは凄まじ
かったので間に合わず、南漢山城に立て籠もることに…

しかし兵力も食料の備蓄もわずかであった仁祖には
降伏以外の道は残されておらず1637年1月に仁祖は
ホンタイジを皇帝と認める

「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」

をし、許されました。

清の皇帝の前で膝を折って謝罪をさせられます。

こうして、仁祖は漢江(ハンガン)の川沿いにある
三田渡(サンチョンド)で、3回ひざまずいて9回頭を
地面にこすりつけるという屈辱的な謝罪をさせられる。

この出来事は「三田渡の盟約」といい、
朝鮮王朝にとってはとても屈辱的なものでした。

のちに、この行為は朝鮮王朝最大の屈辱として
「三田渡の屈辱」と呼ばれたそうです。

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仁祖インジョが息子暗殺し冷遇した理由

息子暗殺

仁祖には長男であり世子である昭顕世子(ソヒョンセジャ)
という息子がいましたが、33歳という若さで暗殺されて
亡くなっています。

その暗殺を仕掛けたのが王であり父である仁祖と
言われており、2人の異常なまでの親子関係の悪さが
伺えます。

昭顕世子は「三田渡の盟約」の際に、人質として
1637年から1645年まで清に連行されていました。

清に人質として捕らわれたのは昭顕世子だけでなく次男も
まだ幼い三男までも人質となりました。

三男は幼い年齢を理由に直ぐ人質から解放されるも
次男と長男である昭顕世子は、長期に渡り清に捕らわれの
身として少年期を他国で過ごします。

人質と聞くと「さぞツラい思いをすることになるんだろうな…」
と思いますが、昭顕世子にとって清での人質生活は
新しい発見や実りのあるものでした。

清には西洋の宣教師が多く、先進的で新鮮な異文化に
触れることができ、昭顕世子にとっては学ぶことがとても
多かったようです。

もちろん同じ兄弟と言っても性格の違いもあるのでしょう。

自分を人質とした清の事を憎み、その土地での生活も
風習も忌み嫌った次男の鳳林に対して長男の昭顕世子は
対照的に都であった瀋陽(しんよう)での生活に興味を
持ったと言われています。

また考え方によっては逆らう事の不可能だっただろう
環境に臨機応変に対応できたとも考えられます。

そんな折、人質から解放されて帰国したら、清で
学んだことを母国で活かそうと思っていました。

嬉々として清での生活ぶりを話す昭顕世子を清の
傀儡と呼び、また既に「三田渡の盟約」によって清の
属国のような存在となっていた朝鮮王朝は当時の噂で

「清での暮らしに感銘を受ける昭顕世子を仁祖に変わって王位に付かせる。」

と言う言葉を、どこかで鵜呑みにしていたのでしょう。

父である仁祖はかつて屈辱的な思いをさせられた
清を憎んでいたため清の文化に感銘を受ける昭顕世子を
「清に毒された」「西洋かぶれ」と蔑み、ひどく不信感を
抱き、親子関係は急速に悪化していきました。

帰国後、清の文化の素晴らしさを語る昭顕世子に
仁祖は手元にあった硯を昭顕世子の顔目掛けて
投げつけた程怒り狂った
と言います。

そして仁祖は清だけでなく、清の文化を取り入れようと
した昭顕世子をも憎むようになりついには毒によって
暗殺したと言われています。

昭顕世子が朝鮮の地に帰国した僅か2カ月
出来事です。

しかもその死は原因不明とされていたことと父仁祖が
毒を盛ったとされる信憑性の一つとして世子である
昭顕世子の葬儀が庶民の扱いと同じ質素な葬儀だった
事にも明らかだったと言われています。

そしてもう一つ。既に昭顕世子には息子がおり
王位継承にあった父の昭顕世子が早世すれば通常
その息子が世子となるものを仁祖は否定。

よもやの清を恨み嫌った次男の鳳林を世子として
指名し
たのです。

これらの不可解極まりない仁祖の行動から持って
昭顕世子の早世は、間違いなく父の仁祖が犯人だと
言われています。

確かに仁祖にとって清は憎き相手かもしれませんが、
国を良くしようと清の文化を持ち帰ってきた息子を
殺すなんて…

それに、そうした清からの、そうした対応となる
結果に導いたのは他でもない仁祖そのものの国政の
取り方にあったのですが…

息子である昭顕世子は、清に人質に捉えられたのも
あくまで仁祖の政治手腕の尻ぬぐいに過ぎないのに…

そう考えると仁祖は、自らの責任を問わず環境に
順じただけとも言える自らの息子に逆恨みして殺害
すると言う手段を取るだなんて、とんでもない王
そして父親ですよね。

いかに、仁祖が無能な王だったか分かる史実だと
言えるでしょう。

仁祖が清から受けた屈辱と、その犠牲者でもある
息子との関係や悲劇の昭顕世子殺害、そして殺害後の
次男鳳林を世子にするまでの波乱の生涯を描いたドラマ
が時代劇『花たちの戦い -宮廷残酷史-』です。

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仁祖イジョンは側室を寵愛し過ぎて朝廷も狂わせる

仁祖には2人の妻と4人の側室がいましたが、その中でも
特に趙氏(チョシ)という側室を寵愛していました。

趙氏は正室である仁烈王后韓氏(インニョルワンフ・ハンシ)
のお付きの女官として王宮入りしました。

身分は低いですが、かなりの美貌を誇っていた趙氏なので
「見た目かぁ」と思いますが、彼女が真の意味で仁祖の
寵愛を勝ち取ったのは、「三田渡の盟約」によって仁祖が
精神的に参っているときに寄り添ったことでした。

本当にツラいときに慰め、そばにいてくれた趙氏は、
仁祖にとっては女神のような存在だったことでしょう。

仁祖は、他の妻や側室に目を向けないほど趙氏を
寵愛していたそうです。

また、仁祖の子供はすべて息子でしたが趙氏は
仁祖にとって初めての娘である孝明翁主を産み、
さらに仁祖の寵愛を受けます。

仁祖は初の娘を大変可愛がったそうで、夫にこれだけ
喜ばれたら、趙氏もさぞ嬉しかったことでしょう。

しかしこの趙氏という女性、実は相当の性悪な
悪女だったのです。

趙氏は仁祖の寵愛をいいことに、横暴かつ身勝手に
過ごしており、気に入らない者がいると仁祖の前で
貶めようとするなど目に余る行動が多々ありました。

本来であれば仁祖はそんな趙氏に厳しくしなければ
いけないのですが、趙氏を元々愛してやまない上に、
仁祖にとって初めての娘を生んだ女性とあって
趙氏を咎めることはありませんでした。

さらには趙氏は、仁祖の継室である荘烈王后趙氏
(チャンニョルワンフ・チョシ)を陰で罵倒
し、
彼女を酷く傷つけていました。

本来であれば妻である荘烈王后趙氏は尊まれる
存在なのに、自分より立場が下のはずの側室である
趙氏によって蔑まれ、夫である仁祖にも全く愛されない
人生を送ります。

朝廷の秩序を乱し、好き勝手し尽くした毒婦ともいえる
趙氏は、仁祖の死後の1652年に16代王である孝宗(ヒョジョン)
や荘烈王后趙氏、その姪である崇善君の妻を呪殺しようと
したことで賜薬による自害を命じられました。

その後、さらし首として民衆に晒され惨めな最期だった
と言われています。

かつての王の寵愛を受けてノリにノッていた趙氏ですが、
悪女らしい最期を迎えたのでした。


おわりに

クーデターを起こし王位に就いたまでは弟の無念を晴らせ、今後は王として頑張っていこうと希望に満ちていたことでしょう。
しかし、3度も国や民を捨てて逃亡した上に、清の侵攻を防げなかったのは王としての器や判断がとても未熟だったと言わざるを得ません。
また、身勝手な側室を寵愛したことから朝廷を狂わしたのも仁祖のダメ男さ具合が目立ちますよね。

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