孝宗の死因も怪しい?王位に付けた理由と顕宗の存在感が無い理由

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16代王、仁祖を父に持ち本来なら王座に
座る事が無かっただろう孝宗(ヒョジョン)。

17代王の孝宗はそんな「無能な王」と言われた
仁祖の息子ですが、実は次男で王位を望める
立場ではなく、父である仁祖がした暴挙によって
その座に就いた王でした。

何故、朝鮮王朝時代の王位継承から外れた次男の
孝宗が王位に付いたのか?その座に就くのに兄の
死因は何だったのか?

骨肉の争いが500年余り繰り返された朝鮮王朝
の中でも過酷な運命によって王位に付かなかった
世子と王位に付いた孝宗について、その最後の
死因まで追ってみようと思います。

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孝宗プロフィール

名前:李淏(イ・ホ)
在位:朝鮮王朝17代王・孝宗(ヒョジョン)
在任期間:1649~1659年(10年)
生年月日:1619年7月3日
死亡:1659年6月23日(39歳)
両親:父は朝鮮王朝16代王・仁祖(インジョ)
母は仁烈王后韓氏(インニョルワンフ・ハンシ)
妻:正妃は仁宣王后張氏(インソンワンフ・チャンシ)側室は3人
子供:8人(うち1人が、18代王となる顕宗(ヒョンジョン))

孝宗の家族と生い立ち

518年続いた朝鮮王朝の歴史の中には27人もの
王が存在しました。

朝鮮王朝の発展に大きく貢献した王もいれば、
暴君と呼ばれるほど悪政を敷いた王も存在しました。

中でも16代王・仁祖(インジョ)は「無能な王」
として有名で、国を捨てて逃亡したり、悪女の
側室に入れ込んで朝廷を狂わしたりと、
まったく国のためにならない王でした。

そんな王が招いた、もう一つの悲劇として
朝鮮王朝で語り継がれる17代王、孝宗が仁祖の
次男でありながら何故王位に付く事となったのか
生い立ちから紹介したいと思います。

孝宗(ヒョジョン)は、朝鮮王朝16代王・仁祖
(インジョ)とその正室である仁烈王后韓氏(
インニョルワンフ・ハンシ)の次男として誕生。

孝宗が生まれた当時は、父の甥である光海君が
15代王として君臨。

その息子であり更に次男でもある孝宗は、王位とは
全く無縁な生活を送っていました。

しかし1623年、父である仁祖がクーデターを
起こし、16代王として即位
することになります。

そのことによって王の嫡子となった孝宗ですが、
仁祖の長男であり孝宗の兄である昭顕世子(ソヒョンセジャ)
がいたため次男の孝宗はまだ王位とは程遠い関係の
ものでした。

このときの孝宗と昭顕世子の兄弟関係は、とても
良好で、孝宗は兄を敬い「兄のために」と戦にも
出るほどでした。

そんな孝宗でしたが、ある出来事がきっかけで
兄弟とともに清に人質に行くことになります。

そこで兄の昭顕世子との仲が急速に悪化して
いってしまうのです。

次の章では、孝宗の清の人質時代についてを
お伝えしていきます。

孝宗の清の人質時代

孝宗(ヒョジョン)は、1637年に父である16代王
仁祖が清と「三田渡の盟約」を交わしたことを機に
兄の昭顕世子(ソヒョンセジャ)、弟の麟坪大君(
インピョンテグン)と一緒に、清で8年間人質として
生活することになります。

後に一番末っ子の麟坪大君は幼さを理由に程なく
帰国、残るは長男と次男の孝宗が清に残ります。

「三田渡の盟約とは?」
清の皇帝ホンタイジに跪いて臣下の礼を取らされた

孝宗は元より清を「蛮族の国」と蔑んでいたため、
この人質生活は彼にとってとても屈辱的なものでした。

孝宗は「いつか復讐してやる」「この屈辱は絶対に忘れない」
清への恨みを募らせていきました。

しかしそれに対し、兄の昭顕世子は、清の文化や
政治に強い興味を示し、積極的に清の王族や宣教師
たちと交流を持つようになります。

この当時の昭顕世子の様子も事細かに父仁祖の
耳に入っていたそうです。

そんな兄の様子が全く理解できなかった孝宗は、
いつしか兄を避けるようになり、兄弟仲は急速に
悪化していきました。

人質になってから8年後、清が明に勝利したことを
機に兄の昭顕世子がひと足さきに解放されて朝鮮王朝に
帰国。

その2ヶ月後に急死してしまいます。

この昭顕世子の死因は父の仁祖による暗殺とも
言われており、詳細は後の章でご紹介いたします。

そして昭顕世子の死後、孝宗はすぐに帰国し、
あれよあれよという間に世子になります。

朝鮮王朝の慣例では、世子が亡くなった場合、
その世子に息子がいるときはその長男に王位継承権が
あり、昭顕世子にも、ちゃんと息子がいました。

しかしそれにも関わらず、世子に指名されたのが
昭顕世子の弟である孝宗だったのです。

次の章では、なぜ孝宗が王位につけたのか
についてを詳しくお伝えしていきます。

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仁祖が次男の孝宗を王位に付けた理由

さきほどもお伝えしたように、世子が亡くなった
場合、その世子の息子が王位を継ぐのが朝鮮王朝の
慣例です。

それにも関わらず、なぜ仁祖の次男で昭顕世子の
弟である孝宗が王となったのでしょうか。

その理由こそが、

「昭顕世子が清に染まり過ぎたから」

ということが大きな一因にあります。

前述したように、昭顕世子は清の人質と言う
立場ながら性格的に聡明で素直な性格だったの
でしょう。

恨めしく大勢の民衆らの前で「三田渡の盟約」として
膝ま付いて土下座を強いられた父仁祖の恨みとは裏腹に
清の文化などに大変興味を持ちます。

自分が王となったときには清で得た知識を
活かそうと考えるほど、清に対してプラスの
印象を持っていました。

ですが、父である仁祖はかつて清に受けた
屈辱的な「三田渡の盟約」を忘れるはずも
ありません。

それは大層な勢いで、心から清を憎んでいました。

それにも関わらず清を肯定し、その文化を自国に
取り入れようとする息子を仁祖は「清に毒された」
と思うようになり、昭顕世子を冷遇するようになります。

そして最終的に仁祖は周囲の反対を押し切って
昭顕世子殺害後には、妻とその兄弟を処刑、子供らを
流刑にし、次男である孝宗を世子に指名するのです。

孝宗は仁祖と同様に清への強い恨みを抱いていたので、
自分と同じ思想を持つ孝宗は後継者としては適役
だったのです。

それほど、無能と言われた16代王、仁祖でしたが
清から受けた「三田渡の盟約」は耐えがたく
プライドをズタズタにしたのでしょう。

ただそうだった心情はともかく、その犠牲と
なって清に人質に捕らわれた世子である息子に
対する殺害は常軌をきした対応だとは思うのですが
時の権力者が時としてキレると怒りの矛先は親兄弟でも
厭わないモノではあったのでしょう。

何より、そうした心情の犠牲者となった昭顕世子や
その妻や子供らが気の毒で仕方ありません。

仁祖が世子にした仕打ちが凄い

憎き清に染まったとして仁祖の怒りを買った
昭顕世子。

昭顕世子は朝鮮王朝の発展のためにと清の文化を
母国に広げたいと考えていました。

清へ強い恨みを持つ仁祖やその他重臣からすれば、
そんな昭顕世子は裏切り者でしかありません。

昭顕世子は仁祖の前で清の文化の素晴らしさを
熱弁しますが、父である仁祖が、そうした考えを
多様性として取りいれる事などできるはずもありません。

清に染まってしまったと思い込み、昭顕世子に激怒。

時には昭顕世子に対して、怒りのあまり、手元にあった
すずりを投げつけたというエピソードまであります。

その後、仁祖と昭顕世子の親子仲は急速に悪化
していき、清から人質解放となり、帰国して僅か
2ヶ月後、昭顕世子は急死します。

昭顕世子の遺体には毒殺されたときと同じ症状があり
(体に多数の黒い斑点があり、体中の穴から出血していたなど)

「仁祖に毒殺されたのでは」

という疑惑が濃厚だと現在でもされています。

もしこれが事実だとすれば、いくら憎き清に感銘
したとは言え、実の息子、それも世子を毒殺するなんて
かなり酷い仕打ちと言えるでしょう。

そして仁祖の仕打ちは、昭顕世子の死後も、とどまる
ことはなく昭顕世子の妻である愍懐嬪姜氏(ミンフェビン・カンシ)
に昭顕世子の暗殺の罪を着せ、彼女とその兄弟を処刑。

さらには3人の息子を流刑にして昭顕世子一家を
滅ぼしてしまうのです。

また、仁祖はその後も昭顕世子に対する怒りは
収まらず、昭顕世子の墓参りには1度も行くことは
ありませんでした。

現在で言う葬式も一国の世子の葬儀とは、到底思えない
程の質素な葬式だったと言われています。

仁祖は15代の光海君からクーデターを、もって王座を
得た王でしたが戦から逃れるのに国民を置いて3度
の逃亡をするなど王にはなってはイケなかった王と
言われた王です。

清から受けた屈辱も、自らの無能さを棚に上げて
清に犠牲者となり人質になった世子が清の文化に
感銘を受けたからと、逆恨みの如く昭顕世子初め
その一家を殺害するなど、史実を振り返っても確かに
無能な王と言われる由縁ばかり。

逆恨みする前に自らの行動を振り変える事は
なかったのでしょうか。

何故「三田渡の盟約」をする事となったのか?
そう振り返る事が出来るレベルの知能があったなら
息子を殺害するなど到底できるはずもありません。

孝宗の死因にも疑惑が?

ただ良くも悪くもそうして16代王、仁祖の死後
17代王として王座についた孝宗。

かつて父を屈辱的な目に遭わせた清に復讐すべく
清との戦に備えて「北伐」の計画を進め始めました。

孝宗は軍事力の強化を図ると同時に、北伐に反対
する親清派の金自点(キムジャジョム)を処刑し、
着々と北伐の準備をしていました。

しかし大国だった清は明を倒してかなりの大国になり、
戦うにはあまりにも強大すぎる国になっていたこと。

ロシア軍討伐のために清軍に2回も援軍を求められて
軍隊に大きな被害が出ていたことなどから、北伐の
機会はなかなか訪れませんでした。

清を倒すために陰で軍事力を高めるなどして
準備していたのに、それをいいように清に使われて
しまう結果となった孝宗ですが、結局は北伐を実現
することなく死亡します。

孝宗の死亡は、過労で体を壊した際の治療時に医師の
不手際によって針が刺さったままとなり出血が止まらず
失血によることが原因
と言われています。

しかし、この孝宗の死には不明な点が多く

「何者かに暗殺されたのでは」

というウワサが立ちました。

真相は不明ですが、北伐のために多くの人の恨みを
買っていますし、暗殺されたとしても不思議では
ありませんよね。

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顕宗が34歳の早世の理由

17代王の孝宗が不自然な死を遂げた後、孝宗の
息子であり世子である顕宗(ヒョンジョン)が
18代王として即位しました。

顕宗は孝宗が清で人質となっているときに生まれた
子で、朝鮮王朝で唯一の国外で生まれた王です。

顕宗の即位後の朝鮮王朝は外部からの侵略もなく、
国内の情勢も安定していたので、顕宗の座位期間中の
15年は比較的平和な時代だったと言えます。

平和なのはいいことなのですが、歴史的に見ると
顕宗のどうしても地味に映ってしまう時代でもあり、
「印象が薄い」「存在感のない王だな」と思う人も
いるでしょう。

しかし全く問題がなかった時代というわけではなく、
先王の孝宗の死の際に継母である慈懿大妃(チャウィデビ)
の喪服期間を何年にするかという礼訟論争
(または喪服問題ともいう)が起こりました。

朝鮮王朝では、家族が死亡すると遺族は一定期間
喪服で過ごすのが通例であり、長男の場合は3年、その
他の息子の場合は1年と決まっていました。

しかし先王である孝宗は「次男なので1年」と唱える
派閥もあれば「王位についたのだから、長男も同然なので3年」
と唱える派閥もあり、1年にするか3年にするかで
全国的な規模で争いになったそうです。

結局は当時、朝鮮王朝で力を持っていた西人派の
「1年」という主張が通り、礼訟論争は一旦終息しました。

しかし、孝宗の妻である仁宣王后張氏
(インソンワンフ・チャンシ)が亡くなったとき、
問題は再び勃発します。

仁宣王后張氏が長男の妻であったか、それ以外
だったかでまた喪服期間が異なるので西人派も
南人派も各々の主張を通そうと必死でした。

結果としては2回目の礼訟論争は南人派の主張である
「1年」が通ります。

「たかが喪服でどうしてここまでもめるんだ」
と思うところですが、平和なら平和で、こういった
屁理屈のようなトラブルも起きやすいものです。

2度に渡る礼訟論争を何とかクリアした顕宗でしたが、
西人派と南人派の政治的な対立はとても根深く、
礼訟論争後もこの2派の問題について悩まされ続け
僅か、34歳の若さで亡くなりました。

顕宗の死因は病死と言われていますが、西人派と
南人派の激しい派閥争いによる心労やストレスに
よって体を壊し、寿命を縮めてしまったと言うのが
大方の死因だと今だに言われています。


おわりに

清で人質生活を経験しただけでなく、世子である兄や甥っ子を亡くし次男でありながら17代王となった孝宗。波乱万丈な人生を送り、清への復讐に燃えていた彼ですが、結局最期は不自然な形でその人生に幕を下ろしました。
息子である18代王の顕宗の時代は朝鮮王朝の中でもそれなりに平和で、良くも悪くも目立たない王という印象が強いですよね。
ただ、大きな戦などがないならないで別の争い事が起きるのも事実で、平和なのに顕宗はずっと朝廷内で戦い続け、寿命を縮めてしまったのでしょう。

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