7代王世祖は非道な王と言われる理由!略奪と粛清が導いた晩年とは

この記事は7分で読めます

世祖アイキャッチ

骨肉の争いで520年余りの朝鮮王朝時代を過ごした
歴代の王の中でも暴君だったのではと思われる
7代王の世祖(セジョ)。

王としての評価よりも王座に就くまでの手段を
選ばない卑劣な行為が語り継がれる事の多い
世祖の真実の評価とは?

晩年の相次ぐ息子が不穏な死が続いた事と自身も
酷い湿疹に悩まされた世祖の病気とは何だったのか。

今回は、そんなな謎多き朝鮮王朝7代王の世祖(セジョ)
についてをお伝えしますので、ぜひご覧ください!

Sponsored Link

目次

世祖プロフィール

王名    第7代国王 世祖(セジョ)
氏名    李瑈(イ・ユ)
生年月日  1417年11月7日(永楽15年)
座位期間  1455年7月25日~1468年9月22日(13年)
没年    1468年9月23日享年51歳
父     世宗セジョン(次男)
母   昭憲王后
后妃 貞熹王后(坡平尹氏)
     謹嬪 朴氏
     廃昭容 朴氏
     淑媛 申氏

第7代朝鮮王朝 世祖の時代の日本

甥っ子だった第6代王端宗の座位期間が自身の
クーデターによって僅か3年と短く短命だった
のに対して第7代朝鮮王となった世祖は13年
間王座に君臨しています。

この時代の日本は何時代だったのでしょう。

端宗から王座を奪った1455年当時はまだ日本は
室町時代ですが、世祖の王座期間であるギリギリの
1468年は日本も1466年まで128年続いた室町時代も
とうとう幕を閉じる事になります。

そして時代は戦国時代に突入。

世祖晩年である1467年から歴史に残る戦国時代の
始まりで応人の乱が3年に渡り勃発します。

日本では室町時代の終盤から戦国時代へと変わる
時代の移り替わりに第7代朝鮮王朝として君臨した
世祖とは一体どんな人物だったのでしょう。

世祖の生い立ち

520年近く続いた朝鮮王朝には27人もの王がおり、
その王たちが治める時代ごとに様々なカラーが
ありました。

4代目王である世宗や22代王である正祖などの聖君は
治めた時代もあれば10代王の燕山君3代王の太宗のような
暴君と呼ばれる王が治めた時代もあったのです。

このように、後世の人々に聖君や暴君と呼ばれる王が
いますが、特に悪名を残した王として第7代王世祖も
なかなかの身内の下克上ぶりが凄まじい人物として今も
語り継がれています。

世祖(セジョ)は、1417年11月7日に朝鮮王朝最高の
君主と呼ばれハングルを発明した王として語られる
4代王の世宗(セジョン)の次男として誕生しました。

朝鮮王朝では血統や産まれてきた順番をとても
重視するので次男である世祖(セジョ)の王位
継承権は2番目であり、長男である5代王である文宗
(ムンジョン)に王位を譲りざるえませんでした。

文宗は1450年に王位を継ぎ、朝鮮王朝の5代王と
なりましたが、それに納得していないのが実の弟に
なる世祖でした。

本来であれば兄王である文宗を支え、援護する
ポジションでありましたが、世祖は生まれつき
出世欲が強く

「このまま、今の立場では終わらない」

という野心が強くあったのです。

そして時は2年ほど流れ、体が弱かった兄、文宗が
38歳で亡くなり
、彼の長男であり世子であった端宗
(タンジョン)が6代王として朝鮮王朝に君臨
することになります。

ちなみに、この兄である第5代朝鮮王朝文宗も元々
病弱だったと言われていますが、一説には王座を狙った
世祖が兄に毒を盛ったとの陰謀説も残っています。

これまでの朝鮮王朝の習わしでは、直系の血統者が
王をサポートするのが普通のことではありましたが、
世祖はそうではありませんでした。

「己こそ、王になるべし」

との信念を持っておりかつてより王座を
狙っていた世祖は、幼王であり甥っ子である端宗を
引きずり下ろすのことを決意するのでした。

そう力ずくでです…

李朝鮮王朝520年時代には、こうした骨肉の争いは
悪しき習慣として繰り返されたと言っても過言では
ありません。

が、世祖は27代の王の中でも最も残忍な行為で
王座を奪いその座に就いた王として語られている
人物である事は間違いありません。

その世祖と言う人物像を追ってみましょう。

Sponsored Link

世祖の性格を父世宗は嫌煙していた

宗世

先ほどの章で、世祖の野心溢れる性格を
お伝えできたことかと思いますが、当時の
朝鮮王朝の人々も世祖に危機感を抱いて
いなかったわけではありません。

端宗の祖父であり、4代王として民衆に最も
尊敬されていたハングル字を発明したと言われる
四代王、世宗も次男の世祖に対して危機感を抱いて
いた1人です。

世祖の異常なまでの野心、そして王位への執着を
より早く察知していた世宗は、孫の端宗のために
腹心の部下である重臣の金宗瑞(キムジョンソ)や
皇甫仁(ファンボイン)らに端宗を託しました。

しかし、そんな世宗の願いは虚しく、世祖は端宗を
守る金宗瑞や皇甫仁らを亡き者とし、自分に有利な
体制を築いていくことになるのです。

年齢や経験値の差はあったかもしれませんが、
王の権力を削って、王朝を自分のものにしていく様は
ある意味見事としか言いようがありませんよね。

また、端宗を愛し、彼に王朝の未来を夢見ていた
世宗や文宗は端宗ではなく世祖が治めた王朝を
空の上から見ていて、とてもツラい気持ちだった
でしょうね…

世祖のクーデターが非道と言われる理由に納得

1453年10月「癸酉靖難(ケユジョンナン)」
言われるクーデターを当氏の首陽大君(スヤンテグン)
(後に世祖)は、ついに起こします。

まだ若く何の罪もない6代王端宗を王座から引きずり落とす
為に外堀をしっかり固めた首陽大君(スヤンテグン)は
その上で端宗を自ら退位させ14歳での上位をさせます。

その後上位を取り上げ流罪に、それでも王座復活を
望む声が絶えない事を知った世祖は、仮にも一刻の王
だった正当な王位継承者だった端宗を庶民に降格。

それでも目障りだと端宗の復権を望む部下や周囲の
人物を自身の実の弟も含めて殺害。

その後端宗まで服毒(薬殺刑)で殺害しています。

享年16歳と言うあまりにも無慈悲なその行為の
上で自らが王座に就いた世祖。

このように、父の世宗や兄である文宗、甥っ子である
端宗を死に追いやり7代王の座を手に入れた世祖。

これまでの血統重視な王位を無視し、力づくで王位を
手に入れたのですが誰もがこの即位に納得していた
わけではありませんでした。

ある意味では「そこまでして願いを叶えたかったんだな」
と思えますが裏を返すと

「幼い甥っ子を亡き者にしてまで王位に就きたかったのか…」

と思えますよね。

とはいえ、時代を考えるとどんな手段を使ってでも
王位に就きたかったという世祖の気持ちを理解して
しまいたいくなるでしょうが…

その前に、世祖が非道な王と言われた理由を
理解する必要もあります。

まず、冒頭で説明しましたが世祖は自分が王位に
就くために当時王であった端宗に対してクーデターを
起こしました。

世祖は、自分を信じていた幼い甥っ子である端宗を
裏切ったという事実があります。

世祖は、自身の父であり、端宗の祖父である世宗が
信頼していた重臣が

「端宗に謀反を起こそうとしている」

と偽りの情報を伝えたのです。

彼が王位に就くためには必要なことだったのには
間違いありませんが、

幼王を陥れたような形になったのは、非道と
言われても仕方がないのかもしれません。

ですが、彼の非道っぷりはこれだけではありません。

もう権力の為なら手段を選ばない男となり完全に
王になる為に全ての出来うる残忍な行為をし尽くした
王こそ世祖だと言えるのです。

世祖の政治は略奪と粛清

略奪と粛清
ここまでお伝えしたように、王位に就くまでの
世祖はとにかく野心の塊で、幼王だった甥っ子にも
情けはなく、鬼のような男だったと言えるでしょう。

そんな世祖ですが、確かに手段や方法には問題が
多かったものの、そこまでして王になるのを望んだ
からには「きっと王としての責務は果たすはず」

「国を良くしたい気持ちで溢れてたたず」

と思いますよね。

しかし7代王世祖の政治は、奪略と粛清に溢れており
王となった世祖がまず行ったのは、己が国王の権力を
強めることでした。

まずは、政治の制度を議政府署事制から、
より王の権力が強くなる六曹直啓制としました。

世宗の時代に廃止された六曹直啓制ですが、
世祖は自分が王として絶大な権力を持つために
王が省庁を直接統括できる六曹直啓制の復活
独断的に進めていったのです。

もちろん反対する者もたくさんいましたが、
世祖はそんな物を捕らえて拷問にかけたり処刑
したしと、容赦なく粛清していきました。

そして次に行ったのが、端宗の復位を望む者の粛清です。

世祖はかなり強引なやり方で王座を奪い取ったため、
一部の家臣の世祖に対する反発は強く

「端宗を再び王に」

と考える者がたくさんいました。

中でも、後に「死六臣(サユクシン)」という
6人の重臣は、端宗を復位させるために世祖殺害の
計画を立てており世祖にとっては邪魔以外の何者でも
ありませんでした。

死六臣の世祖殺害計画が発覚した後は、世祖は
死六臣やその計画に加担した者を全て捕らえ、
ひどい拷問にかけた上に処刑します。

さらには、端宗の復位計画に関与していた
実弟の錦城大君(クムソンテグン)ですらも、
世祖は容赦なく処分しました。

このように、世祖は自分が王としてやりやすいように
たくさんの命を奪い、粛清してきました。

時代やお国柄というものがあるとしても
血なまぐさい世祖の政治は、とても誉められた
ものではなかったことでしょう。

Sponsored Link

世祖の晩年

晩年

兄王である文宗が亡くなってから野心を
むき出しにした世祖は、鬼に取りつかれたように
強引なやり方で突き進み、王座を手に入れました。

その当時は野心や願いを叶えられて満足して
いましたが、晩年の世祖は自分の非道な行いを
とても後悔するようになったそうです。

野心のために甥っ子や弟を殺し、多くの臣下を
粛清し、我が道を貫いてきた世祖でしたが、決して
罪悪感や後ろめたさを感じていないわけでは
なかったのです。

晩年の世祖は、これまで自分が散らせてきた命や
非道な行いを悔い、救いを求めるために仏教へと
のめり込んでいきました。

ただ、そう思うに至る経緯は世祖自身の晩年は
不幸続きの連続でもありました。

そう、それはまるで因果応報と言う言葉が的を
得た発言のように聞こえる程、晩年の世祖は
ことごとく不幸の連鎖だったのです。

晩年の世祖は重たい皮膚病(ハンセン病ではと言われている)
に悩まされ、これはかなり重度の皮膚病だったそうです。

その上実の息子である長男が昼寝の途中に悪夢に
うなされて19歳の若さでそのまま死んだり、次男の
8代王イェジョンも兄同様19歳で死去。

人々はそんな世祖を

「昔に非道なことをしすぎた」

「因果応報だ」

と言い、世祖をさらに仏教へと傾倒させていったのです。

もう過ぎたことは変えられないし、後悔しても
亡くした命は戻りません。

老いた世祖ができるのは、自分がおかしてきた罪と
向き合い、仏に救いを求めることだったのです。

おわりに

朝鮮王朝7代王の世祖は、野心に溢れる王であったことがお分かり頂けたと思います。
幼い甥っ子を王座から引きずり下ろしたこと、自分に歯向かう者は許さないところなどは「とんでもない悪者なのでは」と思ってしまいますよね。そんな世祖は非道な部分が目立ちますが、朝鮮王朝の基本法令集となる「経国大典」の編纂を始めたり、王権を徹底して民の生活の安定に尽力したりと、ちゃんと王として立派な功績も残しています。
王としては有能だったけど、そこに至るまでの手段が強引すぎた世祖…
もっと別のやり方で野心を発揮できたら、誰もが認める聖君や良い意味で歴史に名を残す王族になれたかもしれませんね。


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事

  1. 李方子アイキャッチ
  2. ヨンサングンアイキャッチ
  3. 明宗アイキャッチ
  4. 光海君
  5. 美智子様
  6. チャンヒビンアイキャッチ
  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

このサイトについて