燕山君(ヨンサングン)母の廃妃と死罪が暴君に!最期が悲し過ぎ

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ヨンサングンアイキャッチ

韓国の歴史の中には素晴らしい王が何人かいましたが
中には暴君と呼ばれる王も存在していました。

特に暴君として名を馳せたのが、朝鮮王朝
10代王の燕山君(ヨンサングン)です。

韓流時代劇が好きな人なら、このヨンサングン
という名前にピンと来る人もいるでしょう。

彼はドラマ「七日の王妃」や「逆賊・民の英雄ホンギルドン」
に登場する朝鮮王でかなりの暴君であることが
よくわかります。

今回は、朝鮮王朝10代王の燕山君(ヨンサングン)に
ついてをまとめましたので、ぜひご覧ください!

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目次

燕山君(ヨンサングン)プロフィール

名前:李㦕(イ・ユン)
在位:朝鮮王朝10代王・燕山君(ヨンサングン)
在任期間:1494~1506年(12年)
生年月日:1476年11月23日
死亡:1506年11月20日(29才)
両親:父は朝鮮王朝9代王・成宗(ソンジョン)、母は廃妃尹氏(斉献王后)
妻:正妃は廃妃慎氏、側室は13人
子供:4男2女

朝鮮王朝10代王 燕山君(ヨンサングン)の時代の日本は?

悪名高いヨンサングンの短命ながら暴挙に満ちた
政治で生涯を生きたヨンサングンの時代の日本は
何時代だったのでしょう。

こちらも日本では237年に及び続いた室町時代
生きた朝鮮王朝第10代でした。

暴君と呼ばれ死しても尚語り継がれるヨンサングン
は今から遥昔の514年前に、この時代を生きた朝鮮王朝
だったのですね。

日本人のヒーロー的存在でもある坂本龍馬が亡くなって
150年と考えたら…

いかに遠い時代に生きた人物だったのか、とため息が
出る程遥かなたの人物のようです。

ヨンサングンの生い立ち~子供時代の逸話

ヨンサングン生い立ち
ヨンサングンは、1476年に9代王である成宗
(ソンジョン)の子として産まれました。

ヨンサングンの実母は斉献王后でしたが、
とある事件で廃妃となったため
(詳細は次の章でご説明します)
継母の貞顕王后に育てられます。

しかし貞顕王后は継子であるヨンサングンを
愛することができず冷たく接することが
多かったようです。

また、祖母である仁粋大妃も孫の中でも
ヨンサングンにだけ度を超すほど辛く当たり
幼い彼の心は大層荒んでいきました。

そんな彼の心の闇が垣間見えるエピソードが
あります。

あるとき、代9代王、成宗はヨンサングンを
庭に呼び出し、自分が可愛がっている鹿を
見せました。

その際に、鹿がヨンサングンに近づき彼の手を
なめたのですが、ヨンサングンはそのことに激怒し、
鹿を思いきり蹴飛ばしたそうです。

「高貴な自分の身体を舐めた」と激怒。

本来なら「見て!鹿が僕の手をなめたよ!」
とはしゃいで父子で笑い合うようなほほえましい
シーンのはずですが、ヨンサングンには不快でしか
なかったようです。

それを見た成宗は激怒し、ヨンサングンをきつく叱り
成宗の前では一応反省したかと思われたのですが…

ヨンサングンは自分が王となった直後にその鹿を
殺したといいます。

もう一つの逸話は、恩師にまつわる逸話です。

王の正式な王位継承者として帝王学を学ぶ必要
があったヨンサングンには側近の教育係が付きます。

その教育係が厳しい事に不満を持っていた
ヨンサングンは王として即位した後、速攻処刑
しています。

当時のヨンサングンの暴挙ぶりが分かるエピソード
としてこの二つは語り継がれています。

このように偏屈で歪んだ性格をしていたヨンサングン
だったので父である成宗からも疎まれており、
「世子だから仕方なく接している」

というような状況でした。

元々の性格も偏屈で、環境も王室と言う特異で異質な
環境に身を置き、尚且つ一番愛情を求めるであろう時期に
彼には実母の尹氏がそばに居ないと言う不幸の連鎖が
続きます。

そんな中ヨンサングンの性格は気まぐれで頑固で
独創的そして、かなりの学問嫌いになりました。

苦手な勉強でも、身内で誉めてくれる人がいれば
「もっと頑張ろう!」と思えるものですが、父からは
疎まれ、母も祖母も冷たいばかりだったので
ヨンサングンが学問嫌いになるのも無理はありません。

それでも王位継承を重んじる正当な血筋として
周囲が望むと望まざるとは別問題でヨンサングンは
1493年に世子となります。

不幸なのは、その僅か5年後に晋城大君
(シンソンテグン、後の11代・中宗)が誕生。

このシンソンテグン後の中宗の事をヨンサングンを
毛嫌いした仁粋大妃らは溺愛して育てます。

ヨンサングンの異母兄弟として誕生したこの11代
中宗こそ、この後の10代王ヨンサングンから政権を
略奪する張本人となるのです。
(正確にはクーデターで担ぎ上げられます)

肉親からの愛に恵まれない少年期を過ごした
ヨンサングンは心に大きな歪みと闇を抱えたまま
1494年に朝鮮王朝10代王として即位します。

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ヨンサングン母の廃妃と死罪が暴君へ

前の章でもお伝えしましたが、
ヨンサングンの実母は廃妃尹氏(斉献王后)で
朝鮮王朝初めて廃妃となった女性です。

彼女は廃妃後、とある人物の陰謀によって死罪に
追い込まれるのですがその事実がヨンサングンを
暴君にするトリガーとなっていました。

廃妃尹氏はとても美しい容姿をしていましたが、
かなり嫉妬深い性格をしており、感情的かつ、
わがままな行動で夫である成宗を困らせていました。

最初は美しい妻をかばっていた成宗ですが、廃妃尹氏の
部屋から成宗の側室を呪殺するためのヒ素や呪術に関する
読み物が出てきたことに、成宗の心が離れてしまいます。

この時点で彼女はまだ廃妃ではなかったのですが、
廃妃尹氏は超品である王妃から側室へと格下げと
なったことから、成宗の怒り具合がよくわかりますね。

しかし月日が経つと、徐々に成宗の怒りも鎮まり、
再び廃妃尹氏の部屋に訪れたのです。

ここで上手く立ち回れば、成宗の愛を取り戻すことが
できたかもしれませんが…

またしても嫉妬に駆られてしまい、口論の末、成宗の
顔を引っ掻いてケガさせてしまいます。

これは500年以上続いた朝鮮王朝27代王の中でも
初めての暴挙ともいえる行為。

当時の王が妃から受けた行為としては最もあり得ない
行動だったとされています。

さすがに愛想が尽きた成宗は彼女の廃妃を決定し、
後宮から追放を決意します。

しかしそんな女性とはいえ、世子であるヨンサングンの
実母であり、本来なら大妃となる女性です。

廃妃となった尹氏の今後の扱いに悩んだ成宗は、彼女の
現在の様子や反省具合の次第では王室に呼び戻してもいいと
考え、尹氏のもとに使者を送りました。

廃妃後の尹氏は質素に慎ましく暮らしており、
涙ながらに反省している旨を使者に伝えました。

確かに過去の行いを深く反省している様子が見えたので、
使者はそのことを成宗に伝えようとしますが、
仁粋大妃に捕まり「虚偽の報告をしろ」と脅されます。

元から尹氏のことが嫌いだった仁粋大妃は、尹氏に
戻ってきて欲しくなかったのです。

絶大な権力を持つ仁粋大妃に逆らえない使者は、
成宗に「尹氏は全然反省してない」と伝えることに…

その結果、成宗の中に残っていたわずかな同情心も
完全に消え失せ、今後の報復などの危険を取り除く
ためにも、尹氏に服毒での自害を命じたのです。

この時の尹氏は享年28歳でした。

王に見初められる美貌を持ちながら王室と言う特異な
世界で自らの虚栄心や嫉妬心をコントロール出来なかった
尹氏のあまりに早すぎる死。

ヨンサングンの重臣であり尹氏の死罪に反対していた
任士洪は、ヨンサングンが王位に就いたあと、タイミングを
見てこの事実をヨンサングンに伝えました。

幼い頃から実の母に関する情報はシャットアウト
されており尹氏が死罪になっていたことを知らなかった
ヨンサングンは、ツラすぎる事実に一晩中泣き続けたそうです。

そして涙が枯れたときには、彼は今まで以上に心を
歪ませてしまい、稀代の暴君となったのです。

彼はこの母親の死にかかわった者や死後ヨンサングンが
斉献王后の復位を望むも、それに反対した者らを全て
処刑します。

既に亡くなっている者は墓まで掘り起こして首を
刎ねた
程ヨンサングンの怒りは常軌を期した行動
となっていきます。

ヨンサングン最期はクーデターにて死す

母尹氏
不幸な生い立ちだったとはいえ、ヨンサングンは
王なので公私をハッキリの区別して国を導かなければ
いけなかったのですが彼は朝鮮王朝最悪と言われる
暴君
になってしまいました。

最初こそは前王の遺志を継いで王務を果たしていましたが、
すぐに本性を現して暴君っぷりを発揮し、酒や女に溺れて
自分に逆らうものは全て排除するなどやりたい放題…

1498年には自分に歯向かう士林派を粛清する戌午士禍
(ムオサファ)
を行い、実母の悲惨な死を知ってからは
その件に関わったもの全てを粛清しました。

こんな王に「酒と女の事しか考えていない王」

「あんなやつを王とは認めない」と言う民衆の声の
大きさに怒り狂ったヨンサングンは「ハングル禁止令」
まで発行して民衆に王制します。

ただ、そんな横暴で感情的な王に家臣や民が敬うわけもなく、
ついにはクーデターを起こされて1506年に廃位、流刑と
なります。

このクーデターで王を守るべき側近や家臣らは一目散に
逃げて誰もが王であるヨンサングンを守ろうとしなかった
と言われています。

そして流刑からわずか2ヶ月後、ヨンサングンは病死し、
呆気なく最期のときを迎えました。

幼い頃から肉親の愛に恵まれず、家臣や民からも疎まれ、
最期は悲しく流刑地で死を迎えたヨンサングン。

享年29歳と早すぎる死でしたが、それまでの暴挙
ぶりを考えたら早死にするのも避けられなかった
のかもしれません。

その死は病死とも毒殺とも2つの説が言われています。

少しかわいそうな気もしますが、悪政によって国を乱し
人々を苦しめた暴君には相当な末路と言えるかもしれません。

ヨンサングンの側室の最期も壮絶

チャンノクス
悲しすぎる末路を迎えたヨンサングンですが、
彼の寵愛を受けていた側室である張緑水(チャンノクス)
の最期も壮絶でした。

張緑水(チャンノクス)は貧しい家に産まれ、成人後は
人並みに家庭を持ちました。

しかし彼女の成り上がろうという欲は強く夫や子を捨てて、
生まれ持った美貌を活かして妓生となります。

容姿は特別な美人ではなかったものの30歳を超えた
年齢でありながら童顔で17歳や18歳の娘のように若く
見えたと言われるチャンノクス。

その後、張緑水は既に王になっていたヨンサングンの
目に留まりついには側室にまで登り詰めたのでした。

ヨンサングンの寵愛を手にした張緑水は王室の財産を
使って贅沢三昧の暮らしを始めます。

自分の別宅を作るために民家を破壊したり国費を使って
自分の贅沢品を作らせたり、連日のように豪華な宴を
開いたりなど、とにかく浪費をしまくりやりたい放題。

そんな毒婦だったので、国を憂う重心や民からの評判は
ヨンサングンとともに最悪なものでしたが、彼女は自分の
好き勝手できる状況を気に入っていました。

しかしヨンサングンが廃位となったとき、彼女の
楽園は終わりを迎えます。

ヨンサングンが流刑となったあと、張緑水チャンノクス
打ち首となりました。

彼女の遺体は国を困窮に陥れた毒婦として市中に
晒され、彼女に恨みを持つ民たちから投石や唾の
吐きかけなどがされました。

その投げ込まれた石が多すぎて塚のように盛り上がった
程だったそうです。

生前の好き勝手によって、死後に、このような
むごくて壮絶な仕打ちを受けた張緑水チャンノクス。

一瞬とは言え時の政権をつかさどる時の王の側室と
して栄華を誇った女性の最後は見るも無残な最期だった
と語られています。

それだけ民から憎まれていたのがよくわかりますよね…

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ヨンサングンが暴君な理由

ここまでで、ヨンサングンがとんでもない暴君
であったことが、お分かりいただけることかと
思いますが、彼が暴君である理由は、彼の不幸な
生い立ちや生まれ持った性質やにあると思われます。

肉親からの愛を受けられず、実母が自分の知らない
間に死罪にされ、ずっと心が孤独だったヨンサングンが
心を歪ませてしまうのは無理もないことでしょう。

しかし、それでも運命に立ち向かっていける人こそ
真の王の器というものですがヨンサングンは不幸な
生い立ちや過去に勝てず、激情に流され、朝鮮王朝最悪の
暴君
と呼ばれるまでになってしまったのです。

周りの環境が違ったら、肉親たちがもっと彼を
愛していたら、実母が生きて彼のもとに帰って
こられていたら…

もしかしたらヨンサングンは暴君にならなかった
かもしれませんね。

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おわりに

時代に翻弄された王子として、そして500年の朝鮮王朝時代の中で唯一死してなお君と呼ばれる王子の2人のうちの1人でもあるヨンサングン。
祖の付く名は大きな功績を残した王として、宗は徳のあった王として語られる朝鮮王朝の10代王ヨンサングン(燕山君)は暴君でもあり見方を変えると悲運の王でもあったのかもしれません。子供は親を選べないように父王成宗(ソンジョン)も母の尹氏も選ぶ事は不可能でした。
そして望むと望まざると関係無しに王位継承と言う座に座ることとなるヨンサングンには、幼き頃からの鬱積された感情が全て抑制することが不可能だったのかもしれません。
止めるに止められなかった愚業の数々を廃王として追われて生涯を閉じたヨンサングンは自らがこの破滅への最後を理解し望んでいたのかもしれませんね。


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