第11代国王中宗は無能王?端敬の廃妃に文定王妃の非道を無視した王

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中宗アイキャッチ

518年もの長い歴史を持つ朝鮮王朝には、実に
様々な王が存在していました。

朝鮮王朝を発展に導いた聖君や暴政で国を混乱に
陥れた暴君などはドラマの題材にされることもあり、
韓流ドラマ好きなら朝鮮王朝に興味を持つ人も
多いでしょう。

そんな朝鮮王朝の王たちの中で、一見パッと
しないのが11代王である中宗(チュンジョン)です。

先代である10代王の燕山君が強烈な暴君だったので
その影に隠れてしまいますが、彼もあまりいい王とは
言えませんでした。

韓流時代劇ドラマ「七日の王妃」では
中宗とその妻端敬の切ない愛が題材となっていますが、
史実ではどんな王だったのでしょうか?

今回は朝鮮王朝の11代王である中宗(チュンジョン)に
ついてをまとめましたので、ぜひご覧ください!

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目次

中宗が第11代国王が棚ぼた王と言われる理由

中宗(チュンジョン)は、1506年に
朝鮮王朝11代王となります。

王になるというのはとてもスゴいことなのですが、
中宗は「棚ぼた王」なんて皮肉を言われることも
しばしば…

その理由は、中宗の即位までの経緯にあります。

先王である燕山君はかなりの暴君で現代に語り継がれる
「朝鮮王朝最悪の王」とまで呼ばれていました。

中宗はそんな燕山君の異母弟だったのですが、
燕山君の暴政に反感を抱いていた臣下たちに

「次の王に中宗を!!」と推戴されて王の座に
付いた王です。

臣下たちは、やみくもに反乱を起こすよりも
大義名分があった方がいいと考え、王の血筋である
中宗を燕山君に代わる王として担ぎ上げたのです。

多くの臣下に「王になって!」と願われた当の中宗は
この事態をどう思っていたかというと…

なんと、王に推戴されたにも関わらず、この事実を
全く知らなかったのです。

中宗は思いっきり当事者であり反乱の中心に
いるはずなのに、反乱当日までは蚊帳の外という
不思議な状況にありました。

反乱当日、突然屋敷に中宗を護衛するための兵が
現れ、それを見た中宗は

「燕山君が自分を殺しに来た!」

と誤解するほど、何も知らなかったのです。

そして中宗はようやく臣下から説明を受け、自分が
燕山君に反乱を起こすリーダーであること、反乱が
成功した暁には11代王になることを知らされ、説得されます。

王になるべく日頃から努力をしていたわけでもなく、
特別な野心を持っていたわけでもなかった中宗。

それがある日突然、苦労することなく国のトップである
王座を手に入れる様子は、はたから見るとまさに

「棚ぼた状態」

といっても過言ではないでしょう。

しかし中宗は、元々王になる予定もなかったし、歴代王の
ように、なりたいとも思っていなかったため即位するのを
かなり抵抗したそうです。

結局は臣下たちの強烈かつ熱烈な説得で、渋々11代王に
即位することを受け入れました。

でもこの「棚ぼた状態」は、彼にとっては
幸運なものではなかったのかもしれません…

中宗は優柔不断な無能王?

無能な王
このように、自分の意思とは関係なく、あれよあれよ
という間に11代王になった中宗。

中宗は成り行きで王になったとはいえ、王になった以上
責務を果たそうと燕山君のせいで乱れてしまった政治を
正そうと努力します。

ですが、そこで色々と口出しをしてきたのが、
反乱を起こし、中宗を王に担いだ臣下たちでした。

中宗は王となっても、そんな彼らに強く言うことが
出来ず、本来持った性格のまま優柔不断な決断や態度は
終始変わる事のない王だったのです。

また、そうした中宗の性格を見通して足元を見まくった
臣下たちは何をするにも口を出し、意見を強引に押し付けます。

ですが悲しいかな性格なのでしょう、中宗は担ぎ上げられた
とはいえ自らを王の座に座らせた彼らに頭が上がりません。

そんな中宗は、はたから見ると王なのに王らしく
振る舞えない、王としての仕事ができない

「臣下の操り人形」「無能な王」

と思われても仕方がなかったのかもしれません。

幼い王であればまだ仕方なかったかもしれませんが、
即位時の中宗は18歳と若くはありますが幼いわけでは
ありませんでした。

いくら頭が上がらない臣下とはいえ、王の威厳を
発揮していれば無能な王と思われることも、
なかったのではないでしょうか。

なりたくもない王になったのは可哀想ですが、
王になった以上はそれ相応の振る舞いをするのは
とても大事です。

しかし、それが出来なかった故に、彼は大切な
妻までも手放すことになります。

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中宗は端敬の廃妃も止められない

端敬廃妃

中宗には心から愛した妻・端敬王妃がいました。

中宗と端敬は、中宗が即位前の1499年に結婚
しており、1506年に中宗が即位すると同時に
端敬は王妃となります。

イヤイヤ王になった中宗でしたが、愛する妻が
そばにいてくれるなら頑張ろうと思えたことでしょう。

しかし、王と王妃になった2人には過酷な運命が
待っていました。

端敬は先王である燕山君の縁戚であったため、
燕山君に反乱を起こした臣下たちから

「端敬と離縁せよ」と申し出たのです。

優柔不断で臣下に頭が上がらない中宗も、さすがに
この申し出はハッキリと拒否したのですが…

臣下から

「離縁しないなら端敬を処刑する」

ととんでもない意見が出てきたため、中宗は端敬の
身の安全を守るために離縁、廃妃を決断しました。

王であれば、このような臣下の申し出や意見は
強く言い返し、場合によっては厳しく罰することも
できるそうなものですよね。

それができないのは、中宗がいかに臣下たちに対して
頭が上がらない、妻の廃妃すら止められない言いなりの
王であったかがよくわかります。

即位前から中宗を支え、心から彼を愛していた端敬
でしたが、中宗の即位からわずか7日で廃妃とされて
しまいました。

そんな中宗と端敬の物語に興味のある人は、
ぜひ韓流時代劇ドラマ「七日の王妃」をご覧に
なってみてください!
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中宗の性格が災いした文定王妃の非道な振る舞い

文定王妃悪女
そうして優柔不断な王の性格のせいで端敬が廃妃
なったあと、章敬が2番目の王妃となります。

ですが不幸にも中宗の後を継ぐ12代王となる仁宗(インジョン)
を産んですぐに亡くなってしまいます。

そんな中宗のもとに3番目の王妃として現れたのが、
章敬の遠縁である文定王妃です。

文定王妃は幼い仁宗の継母となり、とても仁宗を
可愛がっていたそうですが、それも最初だけでした。

文定王妃は、それはそれは権力欲や野心の強い
王妃でした。

そうこうしている内に、しばらくして文定王妃は
中宗の子を授かり、男児を産みます。

そして当然の事ながら

「自分の息子を王位に就かせたい」

と望むようになり、中宗の長男であり世子である
仁宗を疎むようになったのです。

そして文定王妃は仁宗の暗殺をも目論むようになり、
当時世子であった仁宗を亡きものにしようと手先に命じて
彼の屋敷に火を放ったという話があります。

仁宗は異様な熱気で目を覚まし、屋敷が
燃えていることに気付きました。

そして仁宗は一緒に休んでいた妻を外に逃がしたあと

「これは継母のしたことに違いない。ここで自分が死ぬのが親孝行なんだ」

と、自身は燃えさかる屋敷に残ったのです。

継母の黒い欲望に気付いていた仁宗は

「親の望みなら…」と腹をくくり死を覚悟しました。

しかし、燃える屋敷の外から父である中宗の自分を
心配して叫ぶ声を聞いた仁宗は、燃える部屋を
飛び出して行ったそうです。

仁宗の性格は、これまた中宗に似たのか良い意味で
素直で純粋潔白な性格だったそうです。

あからさまな文定王妃の自分に対する行いも否定
せず育ての親として最後まで礼を尽くし、文定王妃を
信じる程の純真な青年だったそうです。

世子となってからも跡取りを作るのは王位継承者
としては当然の事ながら文定王妃の意を汲んで
わざわざ文定王妃の息子慶源(13代明宗)が王に
なれるよう子作りもしなかったと言われています。

継母の非道な好意を知りながらも健気に継母の文定
王妃の心の内を読み取り責めもせず、否定もせず
彼は継母文定に歩みよった行動を終始していたそうです。

それ程までに素直で実直な仁宗なのに文定の野心は
とどまる事を知りません。

この件では何とか生き残った仁宗でしたが、その後も
文定王妃が仁宗を疎ましく思うのは変わらない上に、
放火犯を別の妃に仕立てあげたりと非道な行為を重ねました。

文定王妃の非道極まりない仁宗への行いは周囲の
誰もが知るあり得ない行動の数々を起こしています。

正当な王位継承にある仁宗世子に対する悪行だけに
ならず中宗の側室らにも幾度かの陰謀で何度も追放
に追い込む仕打ちを行っています。

歴史に名の残る悪女と言われる文定王妃の悪行の
数々を知らぬ存ぜぬで通した中宗王。

中宗が気付かないわけがありませんが、中宗は相変わらず
優柔不断で毅然とした態度が取れない性格だったのです。

中宗がもっと威厳や強い意思を持って文定王妃に
接していれば、悪行やむちゃくちゃな行いをとめることが
できたのかもしれませんね。

こうして文定王妃の思惑と暴走を誰も止める事が
出来ない中、中宗は1544年にこの世を去ります。

そうして幾度の暗殺に失敗して生存していた仁宗が
世襲政治の中王位継承して12代仁宗として王座に
付く事になります。

ただ、この12代仁宗こそ、518年の朝鮮王朝の
27人歴代王の中でも最も座位の短い王として
王座についてから僅か8カ月で息絶えています。

即位から8カ月の仁宗の短命過ぎる死因は当然の
事ながら幾度かの仁宗暗殺に関わった文定王妃の
暗殺が成功した暁として毒殺された、と語られて
います。

僅か30歳の若さでこの世を去った仁宗は文定王妃
の目論見通り徐々に身体は弱り父の死去から翌年
の1545年この世を去る事になります。

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おわりに

王座への野心が薄く、王としての才能があまりなかったため、朝鮮王朝の歴史の中でも印象が薄かった中宗。
臣下たちに無理やり王座に就かされ、愛する妻と引き離され、無能王とまで呼ばれることになったのは少し可哀想に感じますよね。
そして3番目の王妃であった文定王妃は世子である仁宗の命を狙い続け、仁宗が王になった後にとうとう彼を毒殺したと言われています。
仁宗は人徳や王としての才能があり、もしかしたら聖君と呼ばれる偉大な王になれたかもしれないのに、わずか8ヶ月という朝鮮王朝最短の座位期間でこの世を去りました。もしこの毒殺説が真実なら、夫である中宗がもっと威厳を持って文定王妃に接していれば、キツく注意出来ていれば、仁宗はこんなに早く亡くならなかったかもしれませんね…
いつの時代も、優柔不断でハッキリと物が言えないトップは無能者と言われてしまうものですね。


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