永田洋子の生い立ち~病気が発端?美に嫉妬した連合赤軍の壮絶リンチ

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永田洋子アイキャッチ

「連合赤軍」でナンバー2の最高幹部を務めたテロリスト、新左翼活動家として多くの殺人などに関与したことで知られる永田洋子。

昭和の重大事件として強烈に記憶される「連合赤軍」の、殺人事件は永田洋子の嫉妬によるものといわれ、彼女の生い立ちや容姿に世間が注目し話題となりました。

永田洋子の生い立ちや、彼女の病気が発端かとされる美への嫉妬がもたらした連合赤軍壮絶リンチについてお伝えします。

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目次

永田洋子プロフィール

氏名:永田洋子(ながたひろこ)
生年月日:1945年2月8日
没年月日:2011年2月5日(65歳)享年
出身地:東京都本郷区元町(現文京区)
学歴:慶應義塾大学薬学部(共立薬科大学)
所属:連合赤軍
思想:毛沢東思想
裁判:死刑(上告棄却)
活動:印旛沼事件、山岳ベース事件ほか

永田洋子の生い立ち

太平洋戦争の影響で、永田洋子は生後2か月で東京から神奈川県横浜市に疎開し、小学4年生までは父親が勤務する電機会社の寮で生活しています。

永田洋子は長女で妹がいたようです。

父親は一流の会社勤め、彼女の母親も病院の看護婦長だったようで、それなりに家族で何不自由なく暮らしていました。

永田洋子は調布中・高等学校に進学し、大学は共立薬科大学薬学部入学した程優秀でした。

大学在学中に学生時代に興味を持ち、共産主義同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織の活動に参加し傾倒します。

大学卒業後、慶應義塾大学病院の研究室に入り同病院の薬局で医局員を務めます。

それからも東京都品川区の三水会病院や済生会病院に勤務し、この間連合赤軍の前身となる「警鐘」グループに参加しはじめます。

女性解放問題やボーナス交渉などの労働運動にいそしむことになり、薬剤師の仕事を辞めて活動家となり、後に日共左派、革命左派を経て連合赤軍幹部に登りつめます。

永田洋子の病気とコンプレックス

永田洋子は学生時代にバセドウ病にかかり、症状による容姿の変化が外見コンプレックとなり、美人な女性に嫉妬心をいだくきっかけとなったといわれています。

病院でバセドウ病のために離婚する例を多く目撃し、子供が産めない身体になったという認識を持ったこともありました。

バセドウ病は甲状腺が腫れることで顔の輪郭が変わったり、眼球が突き出したようになるので女性にとっては、かなりショックが大きいはずで、彼女の写真も伏し目がちな感じなものが多く見られます。

この外見コンプレックスが原因で美しい女性メンバーに嫉妬し、大量殺人に発展したといわれるのが「山岳ベース事件」(後述)だったのです。

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連合赤軍事件と犠牲者

1971年結成され約1年活動した極左テロ組織「連合赤軍」は、そのわずかの間に歴史に残る悲惨な殺人事件を起こしたことで有名です。

そのひとつ「あさま山荘事件」は、1972年2月長野県北佐久郡軽井沢町の保養所「浅間山荘」で、連合赤軍が人質をとって立てこもった事件です。

犯人グループは若者中心で9日もの間、極寒の長野で警察との攻防が続き、血まみれの機動隊員や鉄球を使った山荘破壊など映画さながらの衝撃映像がテレビで中継されたことは大きな反響を呼びました。

視聴率89.7%という異常なまでの注目を集めたこの事件は、機動隊2名、民間人1名の計3名の死者に加え、その他27名が重軽傷を負いました。

立てこもり発生から10日たった2月28日部隊の強行突入で人質救出、犯人グループ5名が逮捕されました。

洋子の遠山美枝子への嫉妬が招いた殺害リンチ

殺害リンチ
永田洋子の連合赤軍による同志に対する殺害リンチ事件で有名なのが「山岳ベース事件」です。

前述の「あさま山荘」事件逮捕者の自供で明らかにされた大量殺人事件で、連合赤軍内部で反省儀式と称した粛清により暴行を与えるなどの集団リンチが行われ、メンバー29人中12名が死亡しています。

暴行し、食事も与えず極寒の屋外に放置するなどし、遺体は証拠隠滅のため全て全裸で土中に埋められた悲惨な事件として今も語られています。

若者からの旗揚げで決起された連合赤軍だったため、メンバー同士で恋人関係だったり、兄弟同志、妊娠中の女性メンバーなどが積極的に粛清にあったとされており、殺害理由が永田洋子の嫉妬心であると後世に伝わっています。

永田洋子は、中でも赤軍幹部の美人妻・遠山美枝子(写真上)に強い嫉妬を持ち、遠山美枝子が会議中に髪をとかしていたことに腹を立て、

「革命戦士にふさわしくない」

とし粛清の的にしたといわれています。

彼女には、かなり壮絶な内容で粛清と言う名の元、自分自身の顔を何度も殴らせ変形し腫れあがった顔を遠山美枝子自身に見せつけると言う卑劣ぶりに当時の仲間も眉を潜めた程の嫉妬心を露わにします。

他にも革命左派で美人の女性1人、連合赤軍幹部と、事実婚し妊娠8か月だった女性1名にも激しく嫉妬し悲惨な目にあわせています。

連合赤軍幹部だった永田洋子を止められる者は、誰独り居なかった中での暴走は1人の女のあからさまで、無様な嫉妬や妬みが絡んだ中での女性に集中したリンチだったと言われています。

若い頃からの病気のせいもあり、そのコンプレックスから美しさや女性らしさが疎ましいと感じ卑屈な感情がリンチにつながったのは間違いなく、周囲も恐れる孤高な最高幹部を貫き続けたといえます。

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永田洋子の死刑と最期

最期
山岳ベース事件後に一度下山した際に逮捕された永田洋子は、1993年の最高裁裁判所での裁判で死刑判決が確定しています。

女性特有の嫉妬心から山岳ベース事件を主導し集団リンチに至ったことや、執拗な加虐趣味などが理由とされており死刑は当然の裁きだったといえます。

ところが永田洋子は判決後に脳腫瘍で倒れ、寝たきりとなってしまい、2008年は東京拘置所で危篤状態であることが報告されます。

2011年2月5日、東京拘置所で脳萎縮、誤嚥性肺炎のため65歳で亡くなり、永田洋子の死刑は執行されずに終わりました。

彼女の生い立ちや生涯が話題となり2001年公開された映画「光の雨」では、永田洋子をモデルにした人物が登場し、
2008年の映画「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」でも赤軍関係者を実名で描くなどし注目されています。

永田洋子が拘置所内で病死したことで終末を迎えた大事件ですが、美への嫉妬が思わぬ方向に向かう危うさに恐ろしさを感じざるを得ません。

また未だ国際指名手配として今も逃亡している当時の、連合赤軍らが仲間が逮捕されていない事からも注目され続けている事件の一つと言えるでしょう。

12人もの同士をリンチの上殺害を誘導した永田洋子が、見た共産主義社会の連合赤軍とは一体どんな理想の社会があったのでしょう。

彼女が扇動した連合赤軍が描かれた映画「光の雨」や「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」で実際にあった昭和の悲劇を確認してみましょう。



おわりに

テロリスト「連合赤軍」の最高幹部として多数の殺害リンチ事件などを起こしたとされる永田洋子の生い立ちは、不自由なく育ち薬科大学を出て薬剤師になりながら活動家として連合赤軍幹部に登りつめ、若い頃はバセドウ病で容貌にコンプレックスを持っていたことがわかります。
連合赤軍が起こした数々の事件により、多数の犠牲者が出ており、「山岳ベース事件」では美しい女性への嫉妬心が大量殺人を招いたといわれ、彼女の人生で外見コンプレックスが非常に大きな影響を与えていたといえます。
死刑判決を待たず脳腫瘍となり亡くなったわけですがそのあわれな波乱の人生に女性ならではの怨念が見え、誰にも見守られることなかった孤独な生き様を感じます。


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