婉容の悲劇は溥儀との結婚!子供殺害と最期はアヘン中毒非情の死

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清朝最後の皇帝、ラストエンペラー溥儀の
妻で、満州帝国皇后として有名な婉容。

溥儀自身が撮ったと言われる当時の写真が
かわいい婉容。

美しく聡明だった彼女は残念ながら溥儀との
結婚で無残な最期を遂げることになります。

婉容は溥儀の正妻でしたが、彼との間に
子供はなく、愛人の子供を産んだことで溥儀の
怒りに触れ波乱の人生を送りました。

婉容の溥儀との結婚による悲劇や、殺害された
彼女の子供、アヘン中毒による非情の死について
お伝えします。

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目次

婉容(えんよう)プロフィール

名前:婉容(えんよう)
(清朝皇后・満州国皇后)
全名:郭布羅婉容
生年月日:1906年11月13日
出身地:清・北京
没年月日:1946年6月20日(39歳)
配偶者:愛新覚羅溥儀
子女:女子(私生児)

婉容の生い立ち生粋のお嬢様として

婉容が育った天津は、フランス租界やイギリス
租界、ドイツ租界などがある進歩的でハイカラな
街で知られた土地でした。

育ちも上流階級育ちの彼女はミッションスクールに
通い洋風の教育や文化を好み、特に英語が大好きな
生粋のお嬢様であったといいます。

婉容は自分専用の車を持ち、イギリスやアメリカ
留学を夢見る希望に満ちた少女で、おしゃれで
美しく育ち、後に中国最後の皇帝となる溥儀に
ナイフとフォークの使い方を教えたとも言われています。

婉容17歳の時、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀から
結婚の申し込みを受けます。

ただ当時は生粋のお嬢様だった事と、何不自由なく
素ち、先進的な天津育ちで自由な暮らしをしてきた
彼女は、紫禁城での伝統的で保守的な暮らしが
できるか戸惑いすぐに承諾できず悩みます。

そこに溥儀本人の電話があり、彼の

「西洋社会に通用する皇后になってほしい。」

という言葉を聞き結婚を決めた婉容は
紫禁城での新しい未来を描いて、溥儀へと
嫁ぐ事を決意したと言います。

婉容の悲劇は溥儀との結婚から

溥儀の妻
1910年後期とは言え、当時の時代背景を考えると
あり得ないような発展と開かれた豪奢な世界で
生きる婉容は、溥儀のプロポーズの言葉を更なる
新しい時代への発展を夢見て嫁ぎます。

西洋社会で活躍できるという夢にあこがれ
皇帝溥儀の皇后となった婉容でしたが、その
悲劇は溥儀との結婚から始まったといえます。

既に結婚初夜から彼女のもとに溥儀が訪れる
ことはなく(溥儀は当時から同性愛者として
宦官との関係を好んだという。)

妻も妾も奴隷扱いする溥儀や、伝統に閉ざされた
紫禁城での暮らしは窮屈で苦痛を極めたといいます。

2歳10ヵ月で、かの西大后が認めて皇帝の座に
付いた身分なのです。

正確に言えば幼くとも溥儀の命に逆らえる者など
誰1人いなかったはずです。

その為、思いやりや慈悲とはかけ離れた性格
だったと溥儀の人物像も語られています。

自らの性癖に疑問を持つ事もなく、若く美しい
妻を娶って慣れない形式やしきたりばかりの
紫禁城で妻に女としての行為を行わない事でさえ
何ら疑問に思わない夫溥儀。

どれ程、若妻の婉容は心細かった事でしょう。

みじめな思いで想像とは違い孤独な生活を
しているうちに、気ままに過ごした天津時代の
女友達が華やかに社交界デビューをすると聞いて
婉容は大きなショックを受けるのでした。

彼女は何とかして溥儀の心をつかもうとします
それもかなわず、その頃第2夫人となった文繍に
対するライバル心も芽生え、文繍にいじめを与え
離婚に至らしめることになりました。

文繍は溥儀に訴訟を起こし離婚を迫りますが、
彼女は皇帝の寵愛がなかったばかりか婉容の
いじめまでも暴露し苦痛を訴え、当時の新聞
でも大々的に報じられたようです。

この時、彼女自身も第二夫人として溥儀の
性的嗜好についても世間に暴露しています。

西洋社会で活躍する夢を閉ざされ、正妻で
ありながら寵愛のない屈辱を味わうことと
なった婉容の人生の歯車はここからどんどん
狂い始めることになります。

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婉容の子供は溥儀によって殺害

溥儀との夫婦仲もすっかりさめて愛情に
満たされない婉容は、とうとう愛人をつくり、
女児をもうけ出産しました。

出産した子供を夫である溥儀の子供だと
主張する婉容に、夫の溥儀は万に一つの
可能性も信じなかった
と言います。

溥儀は婉容の出産に怒り、子供を捨てるよう命じ
生まれたばかりの女児は、僅か誕生から1時間
足らずでボイラー室に入れて殺害されたといいます。

事情を問いただす溥儀に婉容は子供の父親に
ついて黙秘をしましたが、元2人の侍従が疑われ
放逐されており、婉容には

「子供は親戚の手で育てられる」

伝えられますが、結局意に反し溥儀の
命で処分されています。

しかも、この子共出産と出産後の殺害は2度
行われたと言われています。

同じく2度目も溥儀の命によって殺害し
生きて日の目を見る事はありませんでした。

出産後すぐの子供殺害で溥儀の怒りが大きく、
婉容の思いを打ち明けることもできない関係で
あったことがわかります。

溥儀は満州国帝王の夢に没頭するあまり皇后
婉容を忘れ、その無情な仕打ちに婉容はどれだけ
耐えてきたかと思うと哀れでなりません。

もうこの時点で夢も希望も持てなかったのでしょう。

夫溥儀に愛される事も無い、他の男との情事も
絶対に許されない、夫が自分を気にする素振りも
見せない。

子供を産んでも殺害される。

まだ若かった婉容には、寄りかかれる人も
夫も居なかったのです。

婉容アヘン中毒で非情の死

愛人との間にできた子供の命を絶たれ、自らの
夢も希望もずたずたに引き裂かれた婉容は、心の
行き場をも失い心身を病むことになるのでした。

紫禁城での隔離された生活や孤独の中で癒される
ものはなく、婉容はアヘンの誘惑に溺れます。

当時の中国では容易く手に入り民衆の間でも流行って
いたと言われるアヘンを婉容は一日に200gという
異常な量を吸う重度のアヘン中毒となります。

おしゃれで美しく賢いお嬢様だった婉容の影は
既になく、晩年となる満州国時代末期には化粧も
せず髪を振り乱し、すり切れた服で横たわりながら
アヘンを吸い続けたそうです。

やがて視力を失い立ち上がることもできない
廃人状態になってしまいます。

時々精神錯乱を起こし叫び、ベットから落ち床を
転げまわる荒れ果てた婉容に、夫の溥儀は情けを
かけることもなく離婚を考え、一人で日本への
亡命まで試みたといいます。

1946年、39歳で婉容は遂にアヘンによる狂気の
中で栄養失調に陥り、非業の死を遂げました。

その無残な亡骸でさえ引き取り手がなかったと
言われています。

中国の皇帝である愛新覚羅溥儀にさえ見初められる
事がなかったら、華やかな貴族として誕生し何不自
無い暮らしで素敵な生活を送っていただろうと思う
だけに彼女の不幸は、まさに最後の皇帝に見初められた
事から破滅へのカウントダウンが始まっていたのでしょう。

ここまで1人の女性の人生を破滅させておきながら
溥儀その人は何の後ろめたさも感じず、自らの立場を
全うするべく同性愛者であり性不能でもあるのに
生涯5人の妻をめとっています。

罪悪感の欠片も見せず、運命に翻弄されながらも
61歳の生涯を全うしています。

同じ運命に翻弄された人生でも溥儀のそれと
婉容の人生は大きく違うと思います。

溥儀は、どこか図太く日中間の政治に利用
されながらも、変化に対応し人生を全うした
のでは、と思えますが妻の婉容は違います。

図らずしも運命の人だと思った夫溥儀に
よって全てが破壊されたと言っても過言では
ありません。

あまりにもその最期を思うとやるせないとしか
言いようがない悲劇の女性です。

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愛新覚羅溥儀5人の妻との異常な夫婦生活!皇族の悪しき風習の犠牲者

おわりに

ラストエンペラーとして中国清朝の歴史に名を刻んだ皇帝溥儀の妻婉容は、生粋のお嬢様だった生い立ちにもかかわらず、重度のアヘン中毒で死に至った悲劇は、溥儀との愛のない結婚によるものであったことがわかります。
婉容は愛人の子供を生みますが、溥儀によって子供を殺害され、孤独の果てにアヘンに手を出し中毒を起こし廃人状態になり非業の死を遂げる波乱の人生を送りました。
溥儀の皇帝への固執の裏で壮絶な妻たちのドラマがあり、婉容の人生はその中でも最も悲惨なものといえるでしょう。彼女に対する溥儀のは皇后への愛はみじんも感じられず、ただ純粋に信じてついてきた婉容の彼に裏切られたうらめしい気持ちが見え、彼女の深い悲哀が長い歴史に今も重く掲げられていることは確かと言えます。


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