魁傑の四股名の意味が生き様そのもの!死因と持病の因果関係とは

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大関から陥落して序二段まで落ちた照ノ富士が
見事な大関復活を叶えました。

前代未聞の返り咲きを叶えた照ノ富士より
44年前に同様に大関から平幕陥落後特例を経ずに
再び大関に返り咲いた力士魁傑関とは一体どんな力士
だったのでしょう。

「クリーン魁傑」の呼称で真面目に相撲に取り組み、
休むことなく努力し栄冠を勝ち取ったその姿に相撲
ファンを沸かせた魁傑。

力士の短命を象徴するように66歳の若さで
亡くなっています。

魁傑の四股名は彼の生きざまそのものといえます。

魁傑の大関返り咲き伝説や四股名の意味、死因と
持病の因果関係についてお伝えします。

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目次

魁傑プロフィール

四股名:魁傑將晃(かいけつまさてる)
(元大関、1979年引退後放駒部屋師匠)
本名:西森輝門(にしもりてるゆき)
生年月日:1948年2月16日
没年月日:2014年5月18日(66歳)
出身:山口県岩国市
身長:188㎝
体重:130kg
BMI:36.78
所属部屋:花籠部屋
得意技:左四つ、寄り、突っ張り、足癖
最高位:東大関
優勝:幕内最高優勝2回、三段目優勝1回。序の口優勝1回
他の活動:日本相撲協会第11代理事長

魁傑の四股名の意味

魁傑「かいけつ」の四股名は耳慣れず
変わった名前ですが、どんな意味が
あるのでしょうか。

魁傑は、当初は本名の「西森」を名乗って
いましたが、十両に昇進すると「花錦」という
四股名に改名。

一応、字画で調べてみると魁傑は
体躯がずば抜けて大きく、優れた人物
ありました。

また魁傑が現役力士時代の相撲解説者として
知られた元力士の玉の海梅吉は四股名魁傑を
もじって、

「魁傑は未解決だね」と言いい魁傑自身の
強弱の差が激しかった事や強みと弱みが表裏一体
だった事を揶揄した相撲解説だったとも言われて
いたようです。

また所属する花籠部屋と、故郷岩国の名所の
錦帯橋から1文字ずつ取り名付けられた
といいます。

ですが本人は「花錦」は自分には合わない
として嫌ったため、短期間で改名することになり、
女将さんによって「魁傑」と命名されたとか。

実際には、本人の昼寝中に新しい四股名を
女将から複数提示され、寝ぼけながらも別の
候補を選んだが、昼寝から覚めると魁傑に
決まっていたといいます。

最初は戸惑ったものの、これが昔中国で
活躍した武将の名で、勝負師に相応しい
四股名であることを知って大いに気に入った
ていたと言われています。

魁傑の44年前大関返り咲き伝説

魁傑大関返り咲き
日本の伝統芸である相撲は古くから決まり事が
ありその中でも大関と言う地位では2場所連続
負け越しをすると大関陥落が決まりとなっています。

ギリギリの所で大関陥落を免れる力士が多い
中それでも一度、大関の座から陥落した次の
場所で二桁の白星10勝をすれば大関に復活が
叶うのが大相撲のルールとなっています。

ただ一度、大関の地位から陥落した力士だと
なかなかその座に戻れる力士はおらず、大半の
大関が元大関として残りの力士人生を終わらせます。

そんな中でも見事な大関復活を叶えた今場所の
照ノ富士が見事大関の地位に戻り話題となった
のが44年前の魁傑関の返り咲きです。

山口県出身の魁傑は日大1年生の時に花籠
部屋入りし、1966年秋場所で初土俵。

1975年春場所で大関に昇進しますが、ケガや
肝炎で苦しみ、1976年初場所で陥落、平幕まで
落ちてしまいます。

ところが3場所通算で36勝9敗の好成績を
おさめ、1977年春場所で魁傑が大関に返り
咲きし大変話題になりました。

陥落直後、慣例では冒頭に紹介したように

「関脇で10勝すれば大関に復帰できる」

のですが、大関陥落の翌場所に10勝挙げられずに
平幕で優勝し大関復活を果たしたのは、大相撲
44年前に返り咲きした魁傑。

そして令和21年3月28日大相撲春場所で優勝し
大関復帰した元関脇・照ノ富士だけといわれています。

それほど大関陥落の憂き世から心機一転元の地位
である大関への地位へは目指しても座れない力士が
大半なのですから44年前の魁傑も如何に伝説的な
大関復活だったのかが分かりますよね。

魁傑は初土俵から79年初場所の引退まで休場はなく
937回連続出場で「きまじめ」「クリーン大関」
と称され人気力士でした。

魁傑は、けがなどで負けが続いても出場し

「休場は試合放棄と同じ」

という名言も残し、相撲に真摯に向かう
その姿勢は共感を呼びました。

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魁傑の突然の死因

そんな魁傑は2014年、66歳の若さで
逝去しています。

短命な元力士が多い中魁傑もまた人生
100年時代と言われる現代で60代の若さで
亡くなっているのです。

2014年5月18日都内のゴルフ場で練習中
急に気分が悪くなり、救急車で病院に搬送
されましたがそのまま息を引きとりました。

死因は「虚血性心疾患」で30年前から
糖尿病を患っていたといいます。

大関2度を経験し平幕での引退でしたが、
相撲協会理事長に就任し八百長問題や力士の
処分を決断、組織改革にも着手し、相撲同様
実務にもクリーンで誠実を極めた魁傑。

彼は2012年定年を迎え退任、放駒部屋を
閉鎖し、相撲解説なども断って表舞台に
出なかったそうです。

愛弟子だった芝田山親方は師匠の自宅を
弔問に訪れ、

「体調が悪いとかも聞いていなかった。偉大な師匠でした。ゴルフに行っていたのだから、俺より健康だったと思う。」

と話しています。

魁傑の突然の早すぎる死に皆が
驚き悲しみました。

魁傑の持病と死因の因果関係

魁傑は、多くの力士が経験する持病の糖尿病
定年後も相撲診療所に通っていました。
(日刊スポーツ:引用)

その死因との因果関係も噂されています。

魁傑の死因となった虚血性心疾患の多くの
原因は動脈硬化です。

動脈硬化の原因もまた高血圧、高脂血症
糖尿病、肥満
など常に食べて身体作りをする
事を平常とされる力士にはついて回る病気です。

現役力士時代の30年も前から患っていた
糖尿病から災いして虚血性心疾患を招いたのは
間違いなく大きな原因の一つだと思います。

30年前から糖尿病歴がありながら、相撲を
引退した後もそのクリーンで真面目な人柄が
かわれ、相撲協会理事長を任されていました。

相撲協会理事長時代には糖尿病で視力を失った
義眼で、山のように積み上げられた文書に目を通し
連日会議やお上との対応に奔走する多忙な姿が
見られ、周囲にも体を気遣う声がとんでいたようです。
(Number Web:引用)

八百長問題の中理事長職にあり、その手腕で
相撲界を支えた実績は高く評価されていますが、
2011年東北巡業の際はまともに歩けないほど
だったといいます。

魁傑の理事長時代は親方や関取と意見の反発も
多く、問題解決のために苦労が絶えず孤独な
日々だったとか。

死去の際かつての弟弟子だった峰崎から

「理事長就任後は体が曲がってかわいそうだった。」

とのコメントもあり、近年はあまり本調子では
なかったことがわかります。

魁傑の名の通り相撲で魅せた勝負師は、長年病とも
闘いながら懸命に生きていたことが伺えます。

最期まで真面目で相撲界のために努力を惜しまず、
懸命な姿を見せ愛された魁傑の死はとても残念
としかいえません。

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おわりに

魁傑の四股名は女将さんがつけたそうですが、強い武将の名にふさわしく44年前平幕から大関に返り咲いたその姿はまた再び脚光を浴びています。魁傑の持病の糖尿病歴は長く、理事長時代は義眼で仕事をし苦労を重ねながらも、誠実にずっとクリーン魁傑を貫き通して相撲人気を復活させたことに尊敬の視線が注がれています。早すぎる死を惜しむばかりですが、後進の力士たちがまた魁傑のように育ってくれることを願っています。


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