織田信長と徳川家康の関係!暗殺疑惑や清州同盟まで表の顔と裏の顔

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織田信長徳川家康関係

天下統一目前の本能寺の変で、家臣・明智光秀に討たれた織田信長と、天下統一を果たした豊臣秀吉死後に、江戸幕府を開いた徳川家康。

今織田信長と徳川家康の関係に注目が集まっています。

信長と家康の人質時代から、盟友となるきっかけとなった清州同盟、信長最期となった本能寺の変での家康暗殺疑惑をめぐり、織田信長の表の顔と裏の顔も見えてきます。

織田信長と徳川家康の関係についてお伝えします。

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目次

織田信長と徳川家康の関係父親は犬猿の仲

松平家(徳川)と織田家は、家康の父広忠、信長の父信秀の代までは犬猿の仲だったといわれています。

松平家の居城だった安城城(愛知県安城市)をめぐり、4~5年間隔で3次にわたる激しい争奪戦を展開した経緯があり、信長の提案による「清州同盟」実現するまで、両家は敵味方の関係でした。

織田信長が9歳の時、信長の父信秀が三河へ侵略して安城城当主となりますが、1547年(天文16年)家康の父広忠が安城城奪還を企てるも失敗し、駿府(静岡市)の今川義元に助けを求めます。

今川義元はこれを引きうけるかわりに人質を強要、竹千代(家康)が選ばれました。

ところが岡崎城から駿府に入る道中、家康の護送役だった戸田宗光(田原城主)の悪巧みにあい、家康は船で尾張の信長家へ金で売りとばされたとか。(おそらく数万円から数十万円見当)

信長の父・織田信秀は、家康を人質にすれば、父松平弘忠が攻めることはないと喜び、熱田の加藤順盛の家に預け丁重に扱わせたといわれています。

織田信長と徳川家康の関係人質時代

歴史上では織田信長と徳川家康、2人の出会いの時期は、「家康が竹千代と呼ばれていた6歳のときに、人質として金で織田家に売られた頃が最初ではないか」と推定されています。

織田家の人質時代、家康は6~8歳、信長は14~16歳、家康は8歳までの2年間を織田家の人質として暮らしたといわれます。

1534年生まれの信長と1543年の家康とは9歳違いで家康より年上だった信長は、汚くみすぼらしいなりで馬にまたがり、山野を駆け巡る「大うつけ」(大ばか者)と呼ばれていた事はあまりに有名です。

一説には世間を欺く為にワザと「大うつけ」を演じていたともいわれている信長。

家康は、3歳で生母お大の方と生き別れており、お大は阿古居というところに住み衣類や菓子を彼に届けたと言われています。

織田の人質となった家康でしたが、2人に交流があったとする史実はないとされており、兄弟のようだったとする説もありますが、実際どのような関わりがあったのかは不明のようです。

そして今度は家康8歳の時、父広忠が暗殺され、今川義元が安城城を奪還、城主織田信弘(信長の異母兄)を捕え人質とし、家康と交換します。

家康は今川家の人質となりますが、そこでは決して惨めな生活ではなく、手習い(文字をかくこと)など学問も教わったといわれ、めぐまれた人質時代だったといわれています。

家康当時の(竹千代)が織田家で人質とされていた時代は1547年~1549年の2年間だったと言われています。

この人質時代は形式上は人質でしたが、幼い家康は織田家の人々に大変可愛がられていたと言われています。

この両家のイザコザからの人質時代に2人は出会い幼馴染としての関係が2年ほどあったと考えられています。

織田信長と徳川家康の関係桶狭間の戦いから清州同盟

この後、人質から解放された家康は今川家に先方として、対する信長は今川家の首を取るべく、両者は敵味方に別れ1560年桶狭間の闘いで対決。

この対決に信長が駿河の名将今川義元を討ち果たし、勝利を手にしたのが「桶狭間の闘い」です。

この戦いで主君「今川義元」を無くしたい家康は今川家からの独立を果たした事で後に信長との同盟を結ぶ事に。

桶狭間の闘いで織田信長が家康の能力を評価し、ただ者ではないといい、「敵に回すと恐ろしい」とまで警戒しつつも、戦力として見逃せない存在だったことがいえます。

織田信長は、1560年「丸根城の攻略」とそれに続く「大高城への兵糧入れ」で家康の見事な戦いぶりを見て、同盟を結ぶこととします。

桶狭間の戦いでは敵味方だったのですが、信長が家康に声をかけ、信長居城の清州城(愛知県清須市)で1561年清州同盟を結びます。

この同盟を境に2人は、盟友関係となりますが、ややその関係には上下関係があったようで、その後も織田家主導の関係へと続いていきます。

言わば主君と家来のような力関係から、またも2人の関係は続いていきます。

清州同盟締結時、家康は20歳、信長29歳。翌年信長の長女五徳と家康の嫡男信康が婚約、4年後に政略結婚を果たした事で親戚関係に。

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織田信長と徳川家康の関係子供の政略結婚からの慟哭

この両家の子供が婚姻関係を結んだ事で親戚関係となった織田家と徳川家ですが、この親戚関係がまたも悲劇を生む結果へとなります。

織田と徳川両家が親戚となった子供(五徳と信康)の政略結婚は、12年後嫁姑の確執からもろくも悲劇を生む結果になります。

信長の娘五徳(徳姫)は、娘を産みますが男の子が生まれず、姑の正室築山殿から嫌みをいわれ、夫信康に側室を与えられたことで激高、父信長に手紙でその屈辱を直訴します。

これが信長の怒りをかうこととなり、信長は「築山殿と信康を殺せ」と当時38歳の家康に命じます。

相当の苦悩の末家康が出した答えは結局2人を諦める事に…

信康は自決し、正室築山殿は斬殺という悲劇を迎えました。

この政略結婚からの慟哭からか、家康の寛大で義理がたい姿勢がその後の戦いでも発揮されているようです。

家康は1561年に織田信長と同盟を結ぶと、その20年後に信長が亡くなるまで信長の天下統一を度々助けています。

信長の上洛や姉川の戦い、長篠の戦いで家康は信長に援軍を送り、信長も、家康が武田信玄と激突した三方ヶ原の戦いでは援軍を送るなどしています。

また、武田家を滅ぼした際、信長は武田家の家臣を見つけ出し殺せと命令しましたが、家康は武田家の人々を匿っていた事がありました。

後に武田家に仕えていた武将が家康の家来として、彼の天下取りに貢献していくことになりました。

織田信長と徳川家康の関係本能寺の変

織田信長と徳川家康の関係を見るに、興味深いのは1582年「本能寺の変」における暗殺疑惑といえるでしょう。

重臣明智光秀が本能寺で信長を殺害したわけですが、元は信長により徳川家康を討伐する計画だったという驚きの説があったようです。

信長が家康を本能寺におびき出し、暗殺を企てていたのを明智が知り阻止しようとしたというもの。

日本の史料には、「信長と家康の関係が悪かった」などと書かれたものはないといわれ、このような事実があるとはいえないようで、当初織田信長と徳川家康の関係は対等だったと指摘されています。

天正元年(1573)に足利義昭が信長によって京都を追放されると、家康は信長に従属することとなり、
天正10年(1582)3月に信長が武田氏討伐を開始した際、家康に駿河口の大将を任せた(『信長公記』)のも家康が信長の配下にあったからとされています。

戦いを経て家康は信長から駿河国を与えられましたが、それは両者の主従関係を示すものだったといわれています。

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織田信長と徳川家康の主従関係

織田信長と徳川家康は、主君と部下という主従関係にありまた、親戚、同盟を締結した盟友、幼馴染として深い結びつきであったことは知られています。

2人は「清州同盟」を結んだ時は対等の関係であったといわれますが、信長が多くの戦を経て勢力拡大に成功してからは、家康は盟友というより、部下といった関係にあったようです。

家康に比べ10倍くらい広い領土をもったといわれる信長にとって、家康は領土拡大のための貴重な戦力だったといえます。

そして信長は怖れるほど家康の能力を見抜いていたといえるでしょう。

信長は、清州同盟の21年後の1582年本能寺の変で重臣明智光秀に襲われ亡くなります。

前述のように明智光秀は信長の家康暗殺計画を知り、家康を助けるため信長を討ったとする説もありますが、現在その可能性は低いといわれているようです。

信長暗殺の真相は定かではありませんが、かつて織田・徳川両家が対立する関係であり、清州同盟で表の顔は盟友となったものの、裏の顔はライバルといった関係だったのかもしれません。

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おわりに

人質として出会った幼馴染、その後同じ時代を生き同盟を結んだ盟友として、また盟友から部下、部下から両家の子供の婚姻関係で親戚にその親戚関係が災いして家康は嫡男と嫁の築山殿を自決と惨殺と言う悲惨な最後を見送らせた張本人として増悪の対象にもなった関係でもあったことでしょう。
それでも紆余曲折した2人の関係を乗り越えて戦国時代を終焉させ260年もの江戸幕府を作った徳川家康。
戦国時代を代表する2人のそれぞれの関係は複雑かつ過酷な関係だったと言えるでしょう。


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