福沢諭吉の韓国とは関わるなの未来予想図!子孫にレーサーは誰?

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長らく日本人には見慣れた顔として1万円札の
顔として知られる福沢諭吉。

お札の顔となった経緯を改めて福沢諭吉の
経歴と韓国とは関わるなと言う発言の意味。

日本の未来予想図を示したといわれる偉大な
学者としての一面や、子孫の有名なレーサーに
ついてもお伝えします。

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目次

福沢諭吉プロフィール

氏名:福沢諭吉
生年月日:1835年1月10日
死没年月日:1901年2月3日(66歳没)
出身地:大阪府大阪市堂島浜
出身校:緒方洪庵適塾(大阪大学)、ブラウン大学
職業:日本の武士、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者
時代:19世紀
研究分野:蘭学・政治思想・哲学・教育
主要な作品:『西洋事情』『学問のすゝめ』
『文明論之概略』など。

福沢諭吉の経歴

2019年4月に2024年度前半に1万円、5千円、千円の
各紙幣が20年ぶりに刷新することが発表されました。

最高位の1万円札が著名な文化人福沢諭吉から
日本主義の父と呼ばれた渋沢栄一に代わることが
決まっています。

現在の1万円札の福沢諭吉は『学問のすゝめ』
名言などでよく知られた教育者ですが彼が韓国とは
関わるなという過激な言葉を残した思想家としての
姿は意外な印象を受け興味深いところです。

改めて福沢諭吉の誕生から経歴を追ってみましょう。

★大阪・堂島の中津藩蔵屋敷で下級藩士の次男
として生まれる。(1834年)
★19歳からは兄の勧めで長崎屋大阪で蘭学を学ぶ。
大阪の緒方洪庵の適塾入門、2年後塾頭になる。(1855年)
★兄三之助が病死。中津に帰り福沢家を継ぐ。(1856年)
★藩命で23歳で江戸へ出府し、中津藩中屋敷に慶應義塾の
起源となる蘭学塾(現在の慶應大学)を創設。(1858年)
★独学で英語を学ぶなどし25歳で咸臨丸で渡米し、
帰国してから外国方に雇われる。(1860年)
★27歳で幕府の遣欧使節団に随行しヨーロッパ各国を訪問。
★明治政府が発足し政府から官職に就くことを打診されるも断り、
蘭学塾名を慶應義塾と改める。(1868年)その後も中津市学校設立や
『学問のすゝめ』の執筆など教育者として活動。
★日刊新聞「時事新報」を創刊する。(1882年)
★東京三田の自宅で脳溢血で死去。享年66歳。(1901年)

福沢諭吉の韓国とは関わるなの未来予想図

福沢諭吉といえば著書『学問のすゝめ』の名言、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。」

で有名ですが、一方で政治や国際関係についても
関心があり『脱亜論』(1855年)という評論本では
「中国や韓国(清国と朝鮮)に関わるな」という
警告を発していたことが注目されています。

東アジアの悪友である清国と朝鮮国とは、隣国
という理由で特別な関係を持つのではなく欧米諸国と
同じような付き合いかたをし、日本が独自に近代化を
進めて行くことが望ましいと結んでいます。

ただ中国や韓国と縁を切って国交断絶をするとか
アジア蔑視ということを指すものではなく、諭吉が
清や朝鮮が依然として近代化を拒否。

儒教的などの旧態を維持した体制(血族や門閥による支配)
にとどまっていることを、西洋文化を取り入れて
文明化をはかった日本と比べ憂慮したものと
いわれているようです。

「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」

の言葉を残していますが、これは日韓関係の
未来予想図を示したものとして注目されています。

特に今も韓国では慰安婦問題や戦時徴用工などの
ように「歴史問題」に固執し新しい時代と向き
合おうとしない現実があります。

その国家としての憂慮すべき態度に日本は毅然と
した態度で向かうのがよいと福沢諭吉なら諭した
ことでしょう。

明治の激動の時代にグローバルな視点で日本の
行くべき方向を見極める先見の明が彼にあった
ことを知っておかなければなりません。

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福沢諭吉がお札になった経緯

福沢諭吉が紙幣のデザインとなった1984年は
国内の経済需要が停滞し海外輸出が経済成長を
支えた頃でした。

1984年以前の紙幣の顔は飛鳥時代に、活躍した
聖徳太子ですが、1984年のお札が福沢諭吉に
なった理由は

「最高券面額として、品格のある紙幣にふさわしい肖像であり、また肖像の人物が一般的にも、国際的にも、知名度が高い明治以降の文化人」

だからといいます。(財務省HP:引用)

お札のデザインに選ばれるのには教科書などにも
載っていたり、世界に誇れる人物であることも
必要な条件とされています。

他にも偽造防止の目的でなるべく精密な人物像や
写真などが残っている人物ということも、選考基準
と言われているようです。

ちなみに現在のお札が製造され始めたのは2004年
からで、長くお札の最高位にとどまっていますが
お札がずっと変更がなかった理由はハッキリしません
でした。

製造当時の総理大臣小泉純一郎が、慶応大出身で
福沢諭吉変更に反対したとか、顔のほくろが偽造防止
になっていて都合がよかったとか噂も色々出ています。

福沢諭吉の子孫にレーサーは誰?

福沢諭吉の子孫に伝説のレーサーがいるという
意外な事実があるのです一体誰なのでしょうか。

その人は福沢幸雄(ふくざわさちお)で1943年
6月生まれで、福沢諭吉のひ孫にあたります。

母親はギリシャ人ソプラノ歌手のハーフで、父の
フランス文学者福沢進太郎がフランスのパリ滞在
期間に誕生しており、後に東京に移住し育っています。

福沢幸雄は大学在学中からレーサーを始めており、
卒業すると1966年にトヨタの開発ドライバーに就任。

国内トップレーサーとして注目され、ファッション
モデルとしても活動していました。

主なキャリアもずらりとあり、以下のようになります。

・鈴鹿1000㎞(今の「鈴鹿10hours」)優勝(1966年)
・鈴鹿12時間優勝(1967年)
・鈴鹿1000㎞優勝(1968年)
・日本Can-Am 4位

彼はレーサーとして順風満帆で1970年代以降の
活躍が期待されながらも、1969年2月静岡県袋井市の
コースでテスト走行していた時、不慮の事故に遭い頭が
い骨骨折で25歳の若さで亡くなっています。

大変残念な最期ですが、福沢諭吉のひ孫として
語るにふさわしい立派な若者だったことがわかります。

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おわりに

1万円札の顔として有名な福沢諭吉には『学問のすゝめ』のような教育者のイメージが大きい一方で、活躍した当時韓国とは関わるなといった先見的なメッセージを残し日本の未来予想図を鮮明に描いていたことに驚かされます。
彼がお札の顔にふさわしい有名な人物であったことは確かで、そのひ孫も優秀日本を代表するレーサーであったというのはすごいですね。
福沢諭吉の1万円札は世界に誇れる日本人の顔として有名になりましたが、彼についての意外な事実を多く見ることができ、他のお札の顔にも興味がわいてきます。


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