細川忠興と妻ガラシャへの溺愛エピソードが凄すぎる

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細川忠興アイキャッチ

織田信長を裏切った事で知られる明智光秀の
三女として誕生し、その美貌から夫細川忠興に
溺愛されたエピソードが語り継がれる細川ガラシャ。

愛される妻としての夫婦の関係や戦国時代に
生きたガラシャと言う女性の最期や時世の句
まで今に語り継がれる細川ガラシャの壮絶人生を
追ってみようと思います。

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目次

細川忠興プロフィール

時代:  戦国時代~江戸時代前期
氏名:  細川忠興(ほそかわただおき)
生年月日:1563年11月28日
死没:  1646年1月18日(享年83歳)
出生地: 京都
主君:  織田信長→信忠→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
藩:   豊前中津藩主→豊前小倉藩主
父母:  父・細川藤孝 母・沼田麝香
養父:  細川輝経
妻:   細川ガラシャ
子供:  長女:長(蝶、前野景定室)
長男:細川忠隆 → 細川(長岡)内膳家
次男:細川興秋(細川興元養子)
三男:細川忠利 → 熊本藩細川家
三女:多羅

細川ガラシャプロフィール


氏名:細川ガラシャ
別名:細川玉子・珠子
生年月日:1563年7月17日
死没:1600年8月25日享年37歳
生誕:越後国
父:明智光秀
母:妻木煕子
宗教:キリスト教

細川忠興の狂暴エピソード3つがヤバい

細川忠興は今に語られる様子や数々の
エピソードとしてもその性格はかなり
短気狂暴な性格だったと言われています。

そうした片りんは数々の突発的な行動となり
時折見せる凶暴性で周囲を絶句させる行動を
起こしていたようです。

その忠興の性格を表すエピソードを紹介しましょう。

1:細川忠興の待女の耳や鼻を削ぐ!

明智光秀の三女・玉子夫妻の結婚5年目の
1582年(天正10年)、ガラシャの父明智光秀が
謀反をおこし、織田信長を討った本能寺の変
起こります。

そこで忠興は義理父である明智方の味方でないと
示すため、妻ガラシャを丹後の山奥に幽閉し別居します。

が、それにより不自由で閉鎖的な生活で心身
変わり果てたガラシャと忠興の関係に亀裂が。

2年後ガラシャは細川家の大阪屋敷に戻り一緒に
暮らしますが、夫忠興との関係は溝を深めうつ
状態のガラシャはカトリックに救いを求めます。

忠興はこのころからガラシャを厳しく監視し、
教会に行くこともできなかったといいますが、
侍女が代わりに出向き、1587年忠興が九州征伐に
出陣中、自室で洗礼を受けキリシタンとなりました。

彼女は元々夫忠興にも負けない程激しい気性で
気位が高い性格でしたが洗礼後は平穏と落ち着きを
取り戻したといいます。

ところが九州征伐から帰国しそれを知った異教徒
嫌いの忠興はこの事実にブチ切れ。

世間ではキリシタン弾圧真っ最中でありキリスト教を
捨てるよう説得しますがガラシャは動じません。

そうしたガラシャの態度にも激怒した忠興は、
見せしめにガラシャをたぶらかしたとして侍女
清原マリアの鼻や耳を削いでしまったのです。

忠興の激し過ぎる気性が分かるエピソードですよね。

とばっちりもいい所ですが…

あまりに激しく常軌を期した行動をする夫忠興の
そうした行為にガラシャは離婚したいと考えますが
キリスト教での離婚は認められていません。

そうした経緯からガラシャも忠興と距離を
置くようになったそうです。

ガラシャを責めるのではなく、周囲に責任が
あるとする忠興。

彼女を守りたい一心というかガラシャを変える
者は許さないというものすごい嫉妬心を感じますね。

2:ガラシャに見とれた庭師を殺害

細川家の庭を植木職人が手入れしいたある日
それを見ていたガラシャが職人に軽い会釈を
したそうです。

植木職人がガラシャを見て、また笑顔で
挨拶を返すのですがそれに対し忠興が嫉妬し
激怒、なんとガラシャに色目を使ったとして
職人を手討ちにしたそうです。

ちなみに手討ちとは自らの手で植木職人を
切り殺したということです。

激高するにも程がありますよね…恐ろしい

忠興は大変なやきもち焼きでガラシャに
他の男が近づくのを極端に嫌ったといいます。

ガラシャはただ仕事している職人を
ねぎらったにすぎないのですが、その
愛情がいかに深かったかがわかります。

愛する気持ちが極端なまでに嫉妬に変わり、
すぐに激怒するというちょっと短気な
ところが多く見えています。

3:秀吉も警戒したガラシャへの文

歴史に残る戦国時代の朝鮮出兵に参加した
細川忠興は、赴任中ガラシャにたくさんの
手紙を送っていたそうです。

愛するが故の行いかと思われますが、その
手紙には、日本にいる豊臣秀吉は女好きだから

「秀吉の誘いには乗らないように」

、ガラシャは美しすぎるからよく注意するように
など浮気を心配する内容があったとか。

両親(正しくは織田信長が決めた政略結婚)で
15歳同士で結婚生活も10年越えていた頃ですが
相変わらず執着心の強い忠興にはあぜんとしますね。

朝鮮出兵の頃にはガラシャのほうは、やや忠興に
愛想をつかしていた可能性もあったという意見も
あるようです。

ただ主君である豊臣秀吉さえ敵視するという
まさにガラシャ一筋の忠興の手紙をガラシャは
どんな思いで読んだのでしょうね。

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細川忠興とガラシャは子沢山

15歳の同い年で結婚した細川忠興とガラシャ。

かの戦国時代でも織田信長はじめ周囲の
武将らの間でも美男美女とされた2人は
相思相愛だったのか子だくさんで、3人の
男子と2人の女子が生まれていたといいます。

その他にも7~8人の忠興の子供の存在が
あったともいわれ、側室が数人いたのだとか。

ガラシャ幽閉中にも新しい側室のもとに
通うこともあり、彼女は一時離婚も考えた
そうです。

ガラシャのキリスト教入信に激高した忠興が、
キリスト教の嫌う一夫多妻で苦しめようと
作った側室ともいいますが、ガラシャの
子だくさんもすごいですね。

とはいえ正式な妻はガラシャだけであり、
彼女には何か特別な思いがあったであろう
と思われます。

また忠興はガラシャの母乳で育った長男と
次男を冷遇したともいわれ、異常なまでに
彼女に愛情を持っていたといえるでしょう。

細川ガラシャの最期も壮絶波乱の人生

天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いを
前に夫の細川忠興は徳川家康軍に参加
します。

が、敵の石田光成はそれを機に大阪にいる
ガラシャや子供たちを西軍の人質にしようと
企みます。

人質にと連れ出そうとした光成に対し、
細川ガラシャは大阪城に入りそれを拒否

彼女は死を選ぶという壮絶な最期を遂げました。

夫の忠興が戦いで留守の時必ず口にした
言葉、

「敵方に人質になることがあれば、家族も家臣も自害せよ。」

を遵守し、彼女は家臣に長剣で自身の
胸を刺すよう命じ、火薬を周囲にまき
屋敷に火をつけたのです。

キリスト教で自殺は禁止されていた
ようですが、最期が自殺かについては
議論があるとされています。

僅か37歳という若さで、常に口うるさく自らを
管理しようとした夫忠興に指示された通りの
最期を自らが選びこの世をあとにしています。

細川ガラシャ辞世の句が美しい

死を決意したガラシャの辞世の句は、

「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

死ぬべき時を察知し夫の名誉を守るため
潔く散ったガラシャの生きざまに圧倒されます。

忠興は彼女の葬儀を教会葬にしたといい、
彼女に最後の愛を捧げました。

ちなみにガラシャ・忠興夫妻の息子(忠隆)
夫婦は当時ガラシャと一緒に居たにも関わらず
無事脱出し逃げのびています。

ただ愛する妻ガラシャ、忠隆にしたら死を決意した
母親を1人自決させ自ら夫婦で逃げきった息子の
態度に忠興はよくぞ生き残ったとは思いませんでした。

むしろ逆の感情だったようで忠興は激怒し
特に息子忠隆の嫁だけでもガラシャと何故
連れ添わなかったと怒り心頭だったのです。

この時の娘であり細川忠興とガラシャの長男
忠隆の嫁だったのが利家と松で知られる前田利家の
娘で七女の千世が嫁でした。

どこの娘だろうとガラシャただ1人を自害させた
事実を許せない忠興は息子夫妻に離縁を迫ります。

それでも、そんな父の言いなりにはならなかった
忠隆は千世との離縁を拒みます。

その忠隆にキレた忠興が行った行為が驚く事に
長男である忠隆を嫡廃してしまったのです。

長男である忠隆にここまで極端な事をする忠興
はやっぱり妻であるガラシャを1人であの世に
逝かせたことがどうしても許せなかったのでしょう。

ガラシャの死は忠興の言いつけ通りだった
とはいえ、若くして亡くなったガラシャの死に
相当な悲しみがあったことは間違いないようです。

細川忠興の性格は超短気

細川忠興は冒頭の数々のエピソードからも
分かるように家臣が「天下一短気」と記す
(「茶道四祖伝書」)ほど超短気な性格で有名です。

ネット上では妻を愛しすぎるヤンデレとか
サイコパスなどとも噂されているようです。

とにかく気持ちを抑えることが難しく、過激とも
いえるエピソードが多いようですね。

美男で頭も切れ戦もできる彼でしたが、先に
挙げたガラシャへの嫉妬など時には非道と
いえるほどの行いも。

家臣が失敗ごとをした時怒って家臣36人を
殺害
したこともあったそうで、この時使用していた
刀を殺した36という数により「三十六歌仙」
(平安時代の和歌集)にかけて「歌仙兼定」
と名付けたとか。

再就職を妨害する「奉公構え」の処罰を
受けた家臣もいたそうで、かなりの執念深さ。

気が短くとにかく家臣を自ら手打ちにした数は
多かったとか、息子に手紙を出して返事が無い
ことに激怒したなど相手を問わず感情をあらわに
していたようです。

息子の返事にも花押〈サイン〉などが整って
ないと書き直しさせるなど作法礼法に厳しいと
いわれていました。

ガラシャにまつわる短気は前述していますが、
男性がガラシャに近づくことには敏感で訪れた下僕
でさえ手打ちにしたり、外出も許さない頑固さもあり
ガラシャも忠興を「引くことを知らない人」
と評したといいます。

37歳と若くして先だったガラシャですが、あの
戦国時代にて夫の忠興は超長生きをしています。

晩年の忠興(享年83歳)は若い頃と違い穏やかな
性格となり、側室を持ちながらも二度と正妻を
持つことはなかったそうです。

彼の墓はガラシャの墓の隣、やはり彼女を
いつも見守っていなければ気がすまない
ようですね。

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おわりに

細川忠興と妻ガラシャへの溺愛エピソードの数々を見てきましたが、一途すぎるほどガラシャしか見ていないような忠興、すぐ激怒し嫉妬を隠せないその性格はちょっと危なすぎな感じもしますね。
天下一の短気と褒め言葉ともいえない代名詞が残った忠興ですが、ガラシャの壮絶な最期にはどれほど大きな悲しみがあったことでしょう。遠い戦国の時代にこれほど妻を思っていた人物がいたことにとても驚かされます。


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