貞明公主の史実に沿った真実の生涯とは?母亡き後の仁祖との関係も

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貞明公主

数ある韓流時代劇ドラマの中でも特に「華政(ファジョン)」
が好きだという人も多いことかと思います。

正統な血筋である主人公の貞明公主
(チョンミョンコンジュ)が過酷な運命に翻弄
される様子はドキドキせずにはいられませんよね。

そんな貞明公主 (チョンミョンコンジュ)ですが、
史実ではどんな生涯を送っていたのでしょうか?

今回は、貞明公主 (チョンミョンコンジュ)に
ついてを詳しくお伝えしていきますので、ぜひ
ご覧ください!

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目次

貞明公主の史実に沿った生涯

悲劇の王女としてドラマの題材「華政ファジョン」
でも描かれた貞明公主の史実や人物像とは一体
どんな人物だったのでしょう。

駆け足で史実を追ってみましょう。

1603年から1685年の16世紀を生きた貞明公主は
日本では江戸時代初期を生きた王女です。

貞明公主プロフィール

名前:貞明公主 (チョンミョンコンジュ)
生年月日:1603年6月27日
死亡:1685年9月8日(83歳)
両親や兄弟:父は朝鮮王朝14代王の宣祖(ソンジョ)
母は仁穆王后金氏(インモクワンフ・キムシ)
弟は永昌大君(ヨンチャンデグン)
夫:洪柱元(ホン・ジュウォン)
子供:8人(7男1女)

父親14代宣祖の唯一の嫡女として1603年誕生。

宣祖52歳の時の子供とあり、同じく嫡男の弟
永昌大君と溺愛されて育つ。

1608年誕生から貞明公主5歳で父宣祖が死去。

その後腹違いの兄である光海君が父の跡取りと
して朝鮮王朝15代光海君として座位に付く。

だが側室の子である光海君と嫡男として最後
まで王にと宣祖が希望していた永昌大君の存在
を良しとせず、実兄臨海君(イメグン)を殺害。

その後、貞明公主や永昌大君、母の
共に王宮を追われ幽閉。

弟永昌大君は島流しとなりその島流しの地で弟は
殺害。

1623年3月13日、西人派を中心に母仁穆王后金氏と
兄を殺害されている仁祖との画策で宮廷クーデター。

同年:15代光海君、失脚とな廃位その後、島流しに。
後継に16代王仁祖が擁立となり王に即位。

貞明公主は母らと共に解放となり名誉を回復。

夫:永安尉 洪柱元3歳年下の夫と婚姻。

長男:洪台望(1625年 – 没年不詳)
次男:礼曹判書 貞簡公 洪萬容(1631年 – 1692年)
三男:洪萬衡(1633年 – 1670年)
四男:洪萬熙(1635年 – 1670年)
五男:洪台亮(1637年 – 没年不詳)
六男:洪台六(1641年 – 没年不詳)
七男:洪萬懐(1643年 – 1710年)
長女:洪台妊(1641年 – 没年不詳)
(Wiki:引用)

7男1女をもうけて83歳の長寿を全うする。

83歳の人生で彼女は6人の王の時代を生きた。

貞明公主は光海君を心底恨んだ理由

15代王である光海君(クァンヘグン)は
貞明公主やその弟の永昌大君の異母兄弟に
あたります。

父は14代王宣祖(ソンジュ)で腹違いの兄弟で
光海君は側室の子でしたが貞明公主は宣祖立っての
願いだった王后との子供でした。

母が違うとはいえ、父を同じくする兄弟なので
家族愛的なものもあってもおかしくはないのですが、
なぜ貞明公主は光海君を心底恨んでいたのでしょうか。

その理由は、現代の平和な時代を生きる私たちに
とっては、とても想像もつかないほど壮絶なものが
ありました。

光海君は王座に就く前、兄である臨海君(イメグン)
と王座争いをしていたことがあります。

しかし臨海君は素行が悪く「王には不適合」
されていたため元々光海君のほうが次期王候補
として優勢ではありましが、

「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」での活躍が
決め手となって朝鮮王朝15代王の座を勝ち取
りました。

その後、王となった光海君は

「今後、自分の王座を脅かさないために」
兄である臨海君を殺害します。

「自分の地位を守るために兄を殺すなんて…」

と思う人もいるでしょうが、当時の朝鮮王朝は

「長子を王にすべき」と考える人もとても多く、
王不適合者であった兄でも邪魔に感じるのは
仕方がなかったことかもしれません。

しかし、光海君はそんな兄だけでなく、
他の兄弟をも手にかけてしまうのです…

それが、貞明公主の弟であった永昌大君なのです。

永昌大君は、光海君が31歳のころに生まれた弟で、
朝鮮王朝14代王の宣祖(ソンジョ)
正室である仁穆王后金氏(インモクワンフ キムシ)
との間に産まれました。

宣祖が王位から退くタイミングで永昌大君はまだ
2歳と幼かったので彼は王候補とはならず光海君が
15代王となりました。

側室の子であり庶子であった光海君や臨海君と
違い永昌大君は正室から生まれた嫡子。

長子主義以上に血統を重んじる朝鮮王朝では、

「後継者は正当な血筋である永昌大君になるべき」

と考える人も多く庶子であった光海君にとっては
最大の邪魔者だったのです。

そのため、光海君は永昌大君を脅威となる存在とし、
母である仁穆王后金氏や姉である貞明公主をはじめ、
永昌大君を守り、支持する一派を一掃するのです。

永昌大君は嫡子から庶人へと降格された上で江華島に
流刑にされ、母である仁穆王后金氏と貞明公主は西宮
(現在の徳寿宮(トクスグン))に幽閉されました。

そして生きていれば光海君の王位を揺るがす可能性が
ある永昌大君は流刑先で、極端に温度を上げたオンドル
部屋で蒸し焼きの刑で殺されてしまいます。

当時の永昌大君はなんとまだ9歳という幼さ…

そんな幼い彼にとんでもなく残酷な刑を科せ、殺した
光海君を仁穆王后金氏や姉である貞明公主は心底恨む
ことになりました。

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貞明公主の幽閉解放後

前の章でもお伝えしたように、光海君即位後に
貞明公主は母である仁穆王后金氏と一緒に
西宮(現在の徳寿宮(トクスグン))に幽閉
されていました。

ですが1623年に光海君に反発する西人派によって
貞明公主は仁穆王后金氏とともに西宮から救出
解放されます。

一時ははく奪された身分も取り戻し、かつての
名誉を取り戻したのでした。

貞明公主の結婚式と壮大な土地

幽閉解放後、名誉を回復した貞明公主でしたが、
この時点で貞明公主は21歳でした。

現代を生きる私たちからすれば充分若く
「まだまだこれから!」という年齢ですが、
当時の朝鮮王朝王族としては21の歳女性は完全に
「行き遅れた女性」に分類されていたようです。

不幸な生い立ちがあったとはいえ、21歳になっても
独身というのは少し(というか、相当…)肩身の狭い
思いをしたのだとか…

そんな貞明公主の将来を案じた仁穆王后金氏は、
貞明公主のために夫候補を募りました。

しかし、21歳という年齢がネックになり
夫選びはかなり難航したそうです。

現代では21歳で結婚というと「もう結婚するの!?」
「早すぎない?」と逆に心配されるよう年齢ですが、
当時の朝鮮王朝では遅すぎるくらいの年齢。

王族とはいえ、年をくってしまった貞明公主は
なかなか候補者の男性には恵まれませんでした。

しかし、仁穆王后金氏は娘の結婚を決して諦めず
熱心に貞明公主の結婚相手を探し続けます。

そしてその様子を見ていた16代王仁祖(インジョ)
かつて自分の即位を手助けしてくれた仁穆王后金氏の
ために貞明公主の結婚相手探しを全面協力。

高官の息子である洪柱元(ホンジュウォン)
結婚することができました。

ようやく娘の結婚が決まり、安堵と喜びに満ちていた
仁穆王后金氏は貞明公主の結婚式も素晴らしく盛大な
ものにしようと尽力し、貞明公主の結婚式は当時も現代に
しても異例の盛大さだったと史実に残されています。

そんな結婚式の盛大さを物語るエピソードがあります。

朝鮮王朝時代の結婚式では、新郎が馬に乗って新婦の
家に駆けつける習慣がありました。

当然、新郎の洪柱元も馬に乗って新婦である貞明公主を
迎えに行くのですが、なんとその際の馬に

「御乗馬(オスンマ)」

という馬が使われました。

「御乗馬」とは国王が乗る馬のことで、その背に
王を乗せていなくても、御乗馬が道を通るときは
民は御乗馬に向かって頭を下げなければいけない
というかなり高貴な馬。

そんな高貴な御乗馬を、仁穆王后金氏は貞明公主の
結婚式のために洪柱元に乗るように命じたのです。

御乗馬を使うことで、貞明公主の結婚式は豪華かつ
盛大なものとなりました。

そして更には、結婚する貞明公主のために
仁穆王后金氏は仁祖に頼んで壮大な土地と広大な
屋敷をプレゼントしました。

屋敷はかつて光海君が建てた宮殿を取り壊して
作り直したもので、かなりの広さのある屋敷
だったそうです。

婚期こそは遅れましたが、ステキな夫に恵まれ、
母や王の計らいで盛大な結婚式を挙げ壮大な土地や
屋敷を手に入れた貞明公主はこれまでツラいこと
ばかりだったけど、このときは人生で一番幸せ
だったことでしょう。

貞明公主の母亡き後の仁祖の豹変ぶり


仁穆王后金氏や仁祖のおかけで結婚相手に恵まれ、
盛大な結婚式をあげてとても幸せな結婚をした
貞明公主。

この時点では王である16代王、仁祖との関係は
とても良好なものでした。

しかし、そんな仁祖との関係は、1632年に母である
仁穆王后金氏が亡くなったあと大きく変化しています。

仁穆王后金氏が亡くなったあと、仁祖は急に貞明公主に
対して冷たい態度を取るようになりました。

あくまで仁祖が恩義を感じていたのは仁穆王后金氏
であり、その娘の貞明公主ではありません。

そのため、仁穆王后金氏が亡くなった今、その娘である
貞明公主をこれ以上優遇する理由が彼の中でなくなって
しまったのです。

また、仁祖がさらに貞明公主を冷遇するようになった
きっかけは、仁穆王后金氏が亡くなったあとに原因不明の
腹痛や高熱に見舞われ、

「貞明公主が自分を呪殺しようとしている」

と思ったからです。

当時の朝鮮王朝では呪術や呪詛などが信じられており、
暗殺に呪殺を用いようとする者もたくさんいました。

そのため、原因不明の体調不良や命に関わるような
病にかかると、本気で

「呪詛をかけられた」

と信じる人が多かったのです。

そんな時代だったので、仁祖が原因不明の体調不良に
呪詛を疑うのは仕方がないのですが…

これまで優遇していた貞明公主に対してあまりにも
ヒドい態度ですよね。

仁祖は王に呪詛をかけた疑いで貞明公主を処罰
しようとしましたが、結局は周囲に止められて処罰は
取り止めになりました。

これまで良好な関係だったのに、仁穆王后金氏が
亡くなることでここまで関係が壊れるなんて
貞明公主もさぞショックだったことでしょう…

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貞明公主は子沢山の長寿だった

母の仁穆王后金氏が亡くなってから仁祖との関係で
悩まされることが多かった貞明公主ですが、家庭は
とても円満で7男1女の8人の子宝に恵まれていました。

当初は婚期を逃してどうなることかと思われて
いましたが、結婚後の夫婦仲は良く、子沢山の
お母さんになっていたようです。

また、波乱万丈な人生を過ごした貞明公主ですが、
実はかなりの長寿で1685年8月10日に83歳で
亡くなりました。

当時の朝鮮王朝の王女の中では一番長生きをしており、
歴代の王6人の時代を生き抜いてきました。

激動の朝鮮王朝時代を生きた貞明公主
(チョンミョンコンジュ)。

韓流時代劇ドラマ「華政(ファジョン)」
でも登場する彼女ですが、貞明公主をより深く
理解するためにはまずは史実に沿った彼女の
生涯を知るのが大事です。

14代宣祖が溺愛した初の嫡子として誕生した貞明公主
の人生は波乱に満ちた人生でした。

男が絶対と言われる男社会に生まれ王妃として溺愛
されるも時の権力を骨肉の争いでその座を競った王
達によって幼い弟を奪われ、自身も幾度と波乱に
巻き込まれてきました。

女と言えども王女として生まれた貞明公主ですが
幾度も腹違いの兄、光海君や、仁祖などに疎まれ
幾度と死の危険とも隣りあわせとなります。

ですが彼女の人間性からいつも彼女を庇ってくれる
重心らのお陰で貞明公主は一命を免れたそうです。

そんな彼女は自分が生前経験した波乱の人生を
振り変えり息子にこう明言を残したそうです。

人の悪口を言わない
人の欠点を卑下しない
兄弟で政治や法律を言い争わない
子孫が仲良く暮らすように

親や兄弟を殺し合い王座を巡った兄や弟が
犠牲者となった事を自身の息子にいい聞かせた
のでしょう。

貞明公主の、こうした考えは王宮でも最後まで
尊敬される女性として歴代の王にその存在を大切に
されたのだそうです。

歴代王を題材のドラマが多い中、貞明公主の生涯を
題材に15代光海君との関係も緻密に描かれたドラマ
「華政ファジョン」が彼女の史実として分かりやすく
描かれています。

お盆休みに一気見がおススメ!


おわりに

朝鮮王朝の史実には、どの王も多かれ少なかれ骨肉の争いを勝ち抜いた王がその座に座ると言う過酷な半生を生きています。女として誕生した貞明公主が嫡子として14代宣祖に溺愛されながらも波乱の人生を歩み、自らの幸せを掴む過程はまさに彼女の人間力も大きく関係したのでしょう。朝鮮王朝の決して表舞台には出る事の無い王女として今も語り継がれる貞明公主の生き様は現代に通じるモノがあるのかもしれませんね。
また520年余り続いた朝鮮王朝時代の歴代の王27人の平均寿命が47歳だった時代において、彼女は83歳の長寿を全うしている事も、生きる知恵と最後まで歴代王に尊敬された彼女の人間性を表しているのかもしれませんね。


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