北尾光司の早死には透析が原因?妻や娘が見た破天荒過ぎる生涯

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北尾光司アイキャッチ

今年2月に糖尿病の悪化から僅か55歳と言う年齢で
亡くなった元横綱・双羽黒の北尾光司さん。

角界でもスピード出世で横綱まで登り詰めた彼の晩年は
糖尿病悪化の為透析含め一時は両足切断を医師から宣告
された程だったそうです。

現役横綱時代は破天荒な性悪の為その後の晩年は波乱に
満ちた生涯だったと言われています。

横綱まで登り詰めた男、北尾光司の晩年を支えた嫁や娘
の壮絶な介護生活と、現在の心境も先日テレビでいかに
壮絶な晩年だったかを嫁が語り話題となりました。

角界でどれ程の活躍をしたのか、そんな元横綱の晩年
の壮絶な病魔との闘いを追って見ようと思います。

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目次

北尾光司の短命過ぎる力士人生

三重県津市出身の彼は、父親の影響で元々は柔道を
始めますが、元々体格に恵まれた体形だったことから
小学生から相撲を始め、直ぐに頭角を現します。

地元の相撲大会では、直ぐに活躍して優勝するなど
当時から目立つ巨体で活躍していました。

中学生時には、既に180㎝越えの長身で体格の良かった
北尾光司に勝てる同年代がいなかったので高校生相手に
対戦していた程です。

1979年には高校に進学せずに、 立浪部屋の土俵を
踏みました。

この時、中卒で既に身長は195㎝あったそうです。

中学時代から角界でも話題になる程の恵まれた巨体を
生かして、北尾光司はすぐに頭角を現します。

1979年の3月場所で初土俵入りしてから1984年1月で
新十両に、同年9月には新入幕を果たします。

1985年には小結に昇進、2場所連続で10勝してそのまま
同年5月に新関脇に。

その後一度は怪我の為平幕に陥落するも、1985年7月場所は
東前頭筆頭の地位で当時の千代の富士らを下して12勝白星を
上げ、優勝次点で殊勲・技能の三賞も獲得。

その次の場所11月場所でも関脇で12勝の勝ち星を
重ねて三場所連続35勝の好成績を評価され1986年1月に大関に
昇進
すると言う、まさに角界では異例の出世街道を駆け上がります。

その同年7月には幕内優勝経験が無い力士が横綱になるのは
可笑しいとされながらも当時の一人横綱、千代の富士だけの
状況打破を狙った横審の多数決で見事7月に横綱に昇進決定
しています。

僅か22歳11ヶ月でまさにスピード出世の横綱街道と
言われ昭和以降の力士では4位のスピード出世だと
言われる程異例の昇進だったそうです。

このように相撲人生は順風満帆な相撲道を歩むも彼には
やっぱり精神面での問題が最後まで、この相撲の才能の
足を引っ張る事になったようです。

恵まれた体格と相撲のセンスがあった北尾光司ですが
ただ一つワガママな性格がマイナスでした。

横綱にはなったものの、横綱昇進後の彼の成績は怪我
からの休場が相次ぎ体調管理を問題視されつつも同年
9月には付け人の集団脱走など問題が相次いで結局
1987年12月27日意見の対立から破門となります。

その内容も散々な内容で、ちゃんこ鍋の味付けで師匠と
ぶつかり、立浪部屋を出ていってしまったりとトラブルが
続いた事で、横綱になったのに相撲を廃業する結果に
なってしまいました。

ワガママな一面だけ直せば、更に強い相撲選手に
なっていました。

元千代の富士や九重親方も口を合わせて言っていた
そうです。

「北尾光司が相撲界にいたら、ここまで自分たちが活躍出来なかったかも」

とコメントしています。

多くの力士の方達から「もったいない」
言葉が出ていました。

相撲界からの廃業後の北尾光司は、プロレス・格闘技と
思いつくままの流れに任せて様々な事に手を出すもどれも
しっかり生計を立てられる状況にはなりませんでした。

本人的には相撲に対する後悔は残った
ままだったかもしれません。

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北尾光司の糖尿病と透析が壮絶

2019年2月10日に55歳の若さで、慢性腎不全
亡くなった北尾光司は、右足首擦り傷が中々治らない
事をキッカケに病院に行く様になりました。

何ヶ月たっても治らず病院に行くと、病名は重度の
糖尿病でした。

なったばかりの糖尿病では無く、手遅れのレベルまで
達した重度のレベルでした。

右足に出来た化膿は腐敗が凄くて左足にも
広がりました。

膝から下の両足を切断するように医師から
伝えられました。

亡くなる1年前からは、腎臓が悪化して透析を
始めました。

北尾光司を襲った糖尿病の病気は恐ろしいです。

足の指が腐ってきたり、目が見えなくなったりします。

力士は体が大きいので、心臓や他の臓器に負担が
かかってしまって、寿命は短いと言われています。

短命な事でも知られる角界ですが北尾光司は
55歳で1番早く亡くなっています。

そして亡くなった事よりも、その晩年が、一時は角界の
華であり頂点でもある横綱まで務めた人物とは思えない
転落ぶりだったことが、北尾亡き後に発覚します。

北尾光司を支えた嫁と娘

彼には、彼の現役時代からのファンだったことが
きっかけで交際に到り結婚した精神科医の奥様と
その二人の間に誕生した一人娘がいました。

娘と嫁(淑恵さん)は、ほぼ寝たきり状態でトイレや
入浴も一人では行えない状態になっていた北尾を
懸命に支え介護しました。

当時既に相当弱っていて娘が高校1年の時には
寝たきり状態でした。

1人でトイレに行けない北尾光司を嫁と娘は
介護し続けました。

195㎝140kgもある北尾光司の介護となると
女性での介護は想像を絶する大変さだったはず
です。

嫁は、精神科医の仕事を辞めて24時間体制で介護に
専念したせいか椎間板ヘルニアになっていました。

そんな中でも当時年頃だった娘さんには夢でもあった
芸能界に行く為に専門学校に通う事を決めていましたが
寝たきりの北尾と母親に相談するも、泣く泣く二人は
「行かせる事は出来ない」と娘さんに言います。

経済状態もギリギリの状態だったのでしょう。
娘さんも父がこんな状態で専門学校になんて
行けないと思い、行くのを諦めたそうです。

亡くなる5年前から千葉県内の病院に入院して
いましたが、症状は日に日に悪化していきました。

最後は、目も見えなくなっていき、意識も朦朧と
して遂には意識がない状態でした。

そのまま2019年2月10日に永眠されました。

僅か55歳の短命でこの世を去った元横綱双羽黒
の晩年は闘病生活との闘いで、この時やっと全ての
苦しみから解放されたのです。

とても苦しんで、闘病中には、既に歩けない身体を
引きづって這って家の外の雨に打たれて死のうとする
など、北尾自身も相当苦しみぬいた晩年だったそうです。

「俺は生きていていいのか」

かつて角界でヤリタイ放題の我がままで破天荒だった
元横綱双羽黒がです・・・

そう涙ながらに嫁に言ったそうです。

北尾光司の短命で破天荒な生涯

中学卒業後に立浪部屋に入門し、北尾光司が
22歳11ヶ月のスピード出世で1986年には、横綱に
昇進しました。

優勝経験は、ありませんでした。

1987年には、立浪部屋とトラブルが起きたり、稽古が
嫌いでズル休みしたり、嫌な事があると親方と対立したり
付き人への暴行事件がありました。

これが理由となり、 北尾光司は引退しました。

最初に言い出したのは誰からの影響だったのか、冒険家
だったようです・・・冒険家って言われても当然上手く行く
訳がありません・・・


引退後は、195cmで横にも体格の良い大きな体を武器に
できるプロレスや格闘技の世界にも足を入れました。

1990年2月10日にデビューしたプロレス世界でも、練習を
サボったり試合も欠場したりと、現場責任者だった長州力と
揉めた事により、契約解除となりました。

2003年に、立浪部屋と和解出来た事で、引退した相撲の
世界に相談役として復帰することになります。

幾度となくチャンスがありながら、それを手にしては
直ぐに離す、の繰り返し、彼の人生は短命な中でも
波乱に満ちた人生だったと言えるでしょう。

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まとめ

北尾光司、元横綱双羽黒の人生は、波乱万丈と言えばそうですが、わがまま放題な性格と行き当たりばったりな半生を振り返っても、やはり、生い立ちで相当甘やかされて育ったのではないでしょうか。
人生の頂点を恵まれた体形によってさほど努力せずとも手に入れた彼の相撲界からの引退と廃業後の半生はすさまじく転落の人生だったと思います。そしてそれを最後まで支え続けた奥様と娘さんが本当に素晴らしい。
そうした家族に恵まれただけでも北尾光司さんは幸せな人生だったのかもしれません。
ご冥福をお祈りします。


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