劉少奇(リュウショウキ)の最期!毛沢東に消された悲劇の国家主席

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劉少奇アイキャッチ

第二代中華人民共和国の国家主席を務めた
悲劇の人劉少奇。

劉少奇国家主席とは、文化大革命を主導した
毛沢東と妻江青の圧力に押され、劉少奇は
毛沢東らの愚策によって対立する立場として
追い込まれた悲劇の国家主席です。

改めて現在の礎を作った毛沢東と、その妻
江青のした残忍な行為がもたらした犠牲者の
1人として政治家としても優秀だった劉少奇が
最期をどう迎えたのか。

毛沢東に消された悲劇の国家主席と言われる
所以などをお伝えします。

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目次

劉少奇プロフィール

名前:劉少奇(リュウショウキ、リウ・シャオチー)
生年月日:1898年11月24日
出身地:清・湖南省寧郷県
没年:1969年11月12日(70歳)
政党:中国共産党
主な経歴:第2代国家主席(1959~1968)
配偶者:王光美

劉少奇と毛沢東の対立

中国共産党で毛沢東主席に次ぐ、ナンバー2の
地位にあり、第2代中華人民共和国主席を務めながら
文化大革命の中で失脚し死を遂げた劉少奇国家主席。

中国共産党の歴史の中でも最も激しい権力闘争
として挙がるのが、劉少奇と毛沢東の対立
いえるでしょう。

と言うか、愚策として現代も語られる毛沢東が
失脚後も政権奪還を狙う為に利用し撲殺された
人こそ劉少奇国家主席だったのです。

毛沢東は、1958年に発動した農工業での大増産を
目指す大躍進政策で数千万の餓死者を出すなど
明らかな大失敗で実権を失います。

その毛沢東に代わって毛の後継者として国家主席と
なった劉少奇らが市場主義を取り入れ経済立て直しに
着手し、しだいに権力を高めていきます。

彼らの政策を批判し資本主義寄りで、あるとする
毛沢東に、劉少奇との政策路線の違いから対立心が
芽生え、党中央に強い基盤を持つ劉を問題視し追い込む
ことで毛沢東らは政権奪還を目論見ます。

大躍進の大失敗は言わずもがなでしたが、毛沢東には
ある種のカリスマがあったのでしょう。

時の権力者としての存在感は他を圧倒する存在だった
毛沢東は、実権を失っても尚、国家主席の座を渡した
劉少奇らに向かいこう言い放ったといいます。

「俺が小指一本動かせば、お前など打倒できる。」

と、毛沢東が面と向かって恫喝したこともあるそうで
かなりの闘争心がむき出しになっていたようです。

毛沢東は、実権はなくとも彼のカリスマ性に扇動
された一般の若者だった「紅衛兵」らを味方につけ
対立する相手を批判し追いつめる事に狙いを定めます。

劉少奇を失脚に追い込むことに次々と取り掛かり
成功させ、劉少奇もその野望から逃れることは
できませんでした。

大躍進によって明らかなる民衆の犠牲者が出ていた
にも拘わらず、毛沢東らが主導した当時10代だった
「紅衛兵」らは毛沢東さに扇動されて反革命的と言い
好き放題に知識人、政治家、教員らを撲殺します。

その最たる人物として劉少奇国家主席の名が
ある事の悲劇と残忍性が文化大革命にはあった…

この当時の「紅衛兵」ら集団でおこなった行為は
文化大革命の最も行き過ぎた行為の一つとして
今も語られています。

紅衛兵の虐殺の異常性

文化大革命のさ中、実権派打倒に猛威を
振るった学生や工場労働者などから出来た
毛沢東思想が根付いた「紅衛兵」らは毛が
「白いモノも黒だ」に従う程の思想を植え付け
られていました。

そんな彼らを扇動したのが毛沢東の妻である
江青ら「四人組」。

貧困と困窮に喘ぐ当時の中国に中国共産党を
立て直すべく現実的な市場主義を取り入れる事を
政策に立てる劉少奇国家主席。

その劉少奇らを悪と見立て、江青らは紅衛兵らを
扇動し
「労働者階級からの権力奪取を目論む資本家の一味」

の一掃を布告します。

それによって、紅衛兵らは知識人、政治家、教員までも
「反革命分子」として迫害。

それによって殺害された国民は170万人以上と
公式統計で発表されています。

それら紅衛兵らの暴徒化した行動は常軌を期した
行動に走り、行き過ぎた行為として人食行為まで
粛清として行われたと明かされています。

中国南西部、広西チワン族自治区の武宣で起きた
人食行為は粛清として38人が犠牲になっています。

増悪の表現として行われたそれらの行為は、恐ろしく
獣にも劣る殺人行為だったそうです。

首切り、殴打、生き埋め、石打ち、水責め、釜茹で
集団虐殺、内臓の抜出し、心臓や肝臓、〇器の切り取り
肉のそぎ落とし、ダイナマイトでの爆破、アリとあらゆる
残忍な行為が使われたのです。

同じ人間同士が増悪の対象として殺害し、果てには
人食にまで至った時代。

当たり前に、その増悪の対象が留まる所を知らず
毛沢東後の第二中華人民共和国を率いる劉少奇にも
その手が及ぶ事となります。

劉少奇は文革の吊し上げの犠牲者


劉少奇は毛沢東が行った文化大革命の吊るし上げの
犠牲者であると言われています。

毛沢東が権力奪回を図り打ち立てた文化大革命に
おいて、劉少奇と鄧小平は

「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」

と批判され、毛沢東の打倒の標的になって
いったのです。

そして毛沢東の思想を掲げる学生の組織する紅衛兵により
劉少奇国家主席らへの攻撃が頻繁に行われるようになり
過酷な糾弾や中傷がなされ、批闘大会と呼ばれる吊し上げが
連日開催されました。

劉少奇ら実権派や反革命分子とされた著名な文化人
などの人々は会場で壇上に引き出され、三角帽子を
かぶらされ、殴打され自己批判を強要されたといいます。

連日の吊し上げに憔悴し、自殺する者も出る中
劉少奇をはじめ多くの共産党要人までも迫害され
軟禁されるなどし、健康を損ね病に倒れていくことに
なりました。

毛沢東が率いた大躍進の負の遺産である「紅衛兵」らの
国の崩壊状態での狂乱は尋常ではなかったのです。

毛沢東の変わりに中国共産党の国家主席となった
劉少奇に対して時の国家主席が国民の前で罵倒され
暴動の中殴り蹴られると言う狂気の沙汰だったのです。

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劉少奇の自宅監禁と最期

この時の、毛沢東や江青率いる「四人組」
扇動した文化大革命によって殺害された国民は
何と170万人以上。

時の国家主席である劉少奇も、その1人として
悲劇の最期を迎える事になるのです。

劉少奇国家主席は、最初に夫人が逮捕され、子供も
家から追い出され自宅監禁状態となります。

彼自身も自宅軟禁となり、とうとう病の床に、
つきましたが散髪や入浴も許可されず、警備員からも
暴行や暴言を受けていたといいます。

獄中の彼の部屋には劉を非難するスローガンを書いた
紙が貼られ、治療する医師は病気のためにも紙を
はずすよう提案しましたが許されず屈辱を受けました。

裏切者と批判され、永久に中国共産党からの劉を
除名する内容が、劉少奇の誕生日にラジオ放送
されてから、劉は言葉を発しなくなってしまいます。

薬も取り上げられ、歯も抜け落ち食事や衣服の
着脱にも、かなりの時間がかかるようになり、
1968年からは寝たきりの状態に陥ります。

それほどの状態になっても身の回りを世話を
するものもおらず、衣服の取り換えや排泄物の処理も
されないままという悲惨な状態が続きました。

1969年河南省開封市に移送された劉少奇はコンクリート
むき出しの倉庫部屋に幽閉され、きちんとした治療も
受けないまま病状が悪化し、同年11月誕生日を数日待たずに
享年70歳で亡くなりました。

死亡時の劉少奇の体重は20kgに満たず、肺炎で非業の
死をとげたとされますが、紅衛兵の殴打によるもの
という説もあります。

あまりにもあわれな中国国家主席の最期に
絶句するしかありません。

劉少奇は毛沢東と江青に消された人

中国歴史史上最大の冤罪とまで非難された
文化大革命の波に巻き込まれ、その政策の実権者
毛沢東と妻の江青に消された国家主席、劉少奇。

1959年に毛沢東の大躍進政策の失政に変わって
国家主席となった彼は、才能や実績、人格にも
恵まれた大物だったといわれます。

ただ国家主席の座を追われた後の晩年まで毛沢東は
自分が権力を握ることにこだわり、優れた後継者に
人が集まるのを恐れ、劉少奇らを叩き潰しに
かかったのでした。

また幽閉中の劉少奇が病気にかかりひどい衰弱状態
あい危篤に陥った時も、党中央は迅速に対応し治療を
行い一命をとりとめましたが、それは生きているうちに
彼を党から除名し、恥辱を与えよという妻の江青の
指示によるものだった
といいます。

独裁者として例えられる毛沢東と、彼と共に国家主席へ
迫害をものともせず対抗勢力排除を敢行した妻の江青の
強権政治の前に倒れた劉少奇の無念が感じられます。

まさしく大躍進政策の愚策によって中国国土や民衆が
崩壊状態にまで陥ったにも関わらず、それらの責任を
全て、劉少奇国家主席に押し付け死の間際まで屈辱的
扱いをした毛沢東と江青の罪は、あまりに重すぎます。

そして、劉少奇国家主席の最期は、才能も人格者と
しても語られる彼の人物像を思うと、あまりに不運
だったと言えるでしょう。

ただそれくらい、当時の毛沢東や江青の権力者としての
不のパワーは大躍進の犠牲者を持ってしても、それらを
捻じ曲げる程の威力と権力を持ち続けていたと
いう事が示されているとも言えます。

毛沢東の死後5年後に中国共産党中央委員会は
彼らが扇動した文化大革命の事を

「重大な災厄と損害、逆行」をもたらした改革だった
と認め失政だったと採択しています。

それが証拠に毛沢東の亡き後、妻の江青は1981年
1月25日に文化大革命を推進したとして「四人組」
の発起人として江青はじめ元副首相の張春橋に
2年間の執行猶予付、死刑判決が下されました。

1983年には無期懲役に減刑。

その後病気治療の為仮釈放中だったさ中
1991年北京の自宅で首吊り自殺をしています。

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おわりに

第2代中華人民共和国主席として活躍した劉少奇は、権力誇示にこだわる毛沢東とその妻江青と対立し、文化大革命の中で過酷な迫害にあい吊し上げの犠牲者となったことがわかります。
劉少奇は自宅監禁の末、病気にかかり70歳で生涯を終えますが、最期は毛沢東と江青に消された悲劇の国家主席として歴史に刻まれることになったのでした。かつて国家主席だった毛沢東が、後を譲った国家主席劉少奇を打倒するという中国社会において大きな悲劇を招いたわけですが、独裁的政治を行う国家の行く末を示しており、再び世界で同様の事態が招かれることのないよう願うばかりです。


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