江青の文化大革命と四人組とは?悪女と言われた女の生涯と娘の今

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中華人民共和国の建国の父として知られる
毛沢東主席が、自らの権力奪回を目指し行った
文化大革命の陰のリーダーといわれるのが、彼の
4番目の妻で、元女優の江青です。

江青の文化大革命は多大な死者を出し大失敗となり
中国の歴史上最悪の事態を招いたため、後世まで
悪女と評されました。

江青の文化大革命とその中心的役割を果たした四人組
悪女と言われた彼女の生涯と娘の今をお伝えします。

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目次

江青プロフィール

名前:江青(こうせい・ジャン・チン)
出身地:山東省諸城県
出生年:1914年3月19日
没年月日;1991年5月14日享年77歳

江青は中華人民共和国共産党主席の毛沢東の
4番目の夫人で、文化大革命を主導し「紅色女皇」
と呼ばれました。

のちに「四人組」を結成しその一人として中国
共産党内で影響力を持ちますが、毛沢東死後に逮捕。

投獄され死刑判決を受け減刑された後、仮釈放中に
北京で自殺しました。

江青と毛沢東は略奪婚だった

中国共産党の礎となった悪評高い毛沢東の
4番目の妻だった江青は、元美人女優として
その都会的でスリムな風貌で人気を集めて
いました。

毛沢東と出会い交際を始めたのが江青25歳
毛沢東が45歳の時のことでした。

ところが毛沢東は当時3番目の夫人(賀子珍)
がいる中での不倫であったため、後に彼女と離婚し
江青と一緒になることを決めます。

江青と毛沢東は略奪婚だったのですね。

不倫に加え、当時からスキャンダルなどで
知られていた江青と毛沢東の結婚は毛沢東の側近ら
幹部たちの反発を招きます。

が、そんな周囲の声もどこ吹く風、結婚条件として
「江青を政治の表舞台に立たせないこと。」

を約束させられつつ二人は略奪婚を成就させます。

そして日中戦争中の1939年に2人は正式に結婚し
翌年には娘李訥(りとつ)が生まれます。

1949年には毛沢東国家主席とする中華人民共和国が
建国され、江青は晴れてファーストレディーとなります。

ただ当時から毛沢東は複数の女性とも関係を持つ
性豪であったため二人の関係は直ぐに冷えた関係に
なっていき、江青をなだめるため禁じていた政治活動
参加を彼女に認めるようになりました。

1960年代前半から江青は政治活動に入り、やがて
1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として
活躍し、その悪女ぶりを世界に知らしめることになります。

江青の文化大革命と四人組がした事

文化大革命は中国独自の社会主義建設を目指し
毛沢東が若者を扇動し、政策に対立する政治家や
知識人などに激しい迫害をあたえたものです。

毛沢東死去までの1976年まで続き、中国全土で
多大な死者を出したことで知られています。

実際は文化大革命は毛沢東の妻、江青が秘密裏に
画策し、学生からなる紅衛兵運動で指導者や教育者
政府機関などを攻撃しエスカレートし、破壊行為や
社会動乱をひき起こし大惨事となりました。

「四人組」はこの革命を推進し実質的に指導した
とされる権力集団です。

党中央政治局のメンバーで毛沢東側近の王洪文
張春橋、姚文元、そして江青の4人
が中心となり
反対派を次々に失脚させ追放したのでした。

このことで江青が共産党幹部や知識人を無残に
迫害した張本人として悪名高い女性に挙げられて
いるのは言うまでもありません。

江青を中心とする4人組が党の中枢を握り、行政の
幹部らと対立が深まっていき、毛沢東の死後、一層
国家最高主導権奪取に燃え陰謀活動を加速する彼らが
クーデターを企てたとして、1976年華国鋒主席により
逮捕され打倒される衝撃的な事件に発展しました。

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江青の最後

1981年1月25日、文化大革命を推進した四人組らが
政治転覆の罪などに問われた裁判が中国の最高裁で
ありました。

毛沢東の妻で、元党中央政治局員の江青と、元副首相の
張春橋に2年間の執行猶予付、死刑判決が下されました。

1983年には無期懲役に減刑され、1984年に癌療養の
ため病気治療仮釈放されますが、1991年に北京の
居住地で首つり自殺を図り自ら一生を終えました。

古新聞の片隅に

「毛主席、あなたの生徒␣あなたの戦友が␣いま・・会いに行きます」

と記した遺書があったといいます。

夫の復権をかけ文化大革命を起こし、最後まで
妻としてではなく戦闘の中に立つ同志として、男並みの
威力を誇った江青らしい生き様に圧倒されます。

江青と毛沢東の娘の今

江青と毛沢東の一人娘は李訥(りとつ、リー・ノウ)
といい、中華人民共和国の政治家として知られています。

1959年北京大学に入学し歴史学を学び卒業しており
文化大革命中に北京市平谷県党委員会第一書記、
北京市党委員会第二書記を歴任しています。

結婚し一子をもうけますが離婚し、母親、江青
失脚後は自身も失脚し、苦しい生活を送ったと
いいます。

母親が亡くなってから恨みを持つ人間から守るため
母の遺骨を自宅に保管していた李訥は、遺骨を自宅に
保管します。

江青が亡くなってから11年後、世間に知られないよう
江青の本名や家族の名を伏せた墓を北京郊外に建てた
ことがスクープされました。

彼女は党中央弁校長秘書部に就き、再婚もし
2003年全国政治協商委員会委員となります。

2008年の四川大地震の際は異母姉と連名で
被災地に10万元を送ったといわれています。

2016年には山西省で催された毛沢東を記念した
書道展で、自身の書道を披露し多くの人々の前に
現れていますが、あまり体調がよくないようで
車椅子での登場だったそうです。

李訥は、今も尚、悪女として語られる江青の
娘として苦労も多かったようですが、父母の
近くで行政を見つめながら、自身も政治の道に進み
中国のサポートに携わる役目を果たしていることが
わかります。

1940年生8月生まれの李訥の現在の健康状態は
定かではありませんが、年齢も既に79歳か80歳
を迎える高齢ですが現在も健在のようです。

今も彼女の父親、毛沢東を崇拝する習近平が
毛沢東が建立した中国共産党の指揮を執り独自の
路線で世界を圧倒する中国。

世界から様々な批判を浴びつつも独自の路線を
突っ走る現在の中国に彼女は何を想うのでしょう。

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おわりに

毛沢東主席の行った文化大革命の裏で、革命の実権を握る権力集団である「四人組」のメンバーの一人として反対派を排除し、数千万もの死者を出したことで歴史に悪女の名を残した江青。
その生涯は毛沢東との略奪婚に始まり、文化大革命での活躍による悪名、毛沢東死後逮捕され死刑判決を受けた後自殺するなど波乱に満ちていました。後に残された江青の娘李訥は、中国の政治家として国のために尽くしていたことがわかります。
政治の世界で男性並みに権力をふるい、最期まで毛沢東の同志として戦った悪女江青が去った後、人々は中国の新しい姿を創り出し次の道に進むことになります。


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