毛沢東がした殺戮と内容!文化大革命と言う名の大躍進政策の大失敗

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毛沢東

1949年に中華人民共和国の建国を宣言し、初代
最高指導者の座につき権力を思うままに振る舞い
殺戮の限りを尽くした文化大革命を指揮した
毛沢東。

格差が無く誰もが等しい立場にある共産主義の
世界の実現を掲げ理想を極めようとしました。

毛沢東が推し進めた大躍進政策や文化大革命で
行われた殺戮とその内容は目を疑う内容ばかり。

今に語り継がれる悲惨に負の歴史を作った毛沢東を
崇拝する現在の習近平が崇拝してやまない人物
毛沢東について改めて追ってみようと思います。

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目次

毛沢東が目指した大躍進政策

毛沢東が目指した大躍進政策(1956~1961)
はどのような内容なのでしょうか。

大躍進政策とは、1958年から毛沢東思想に基づき
始められた、中国の急進的な社会主義国家建設の
試みです。

毛沢東は
「15年以内に(当時経済大国2位の)イギリスを追い越す」

という国家目標を掲げ、国民による労働力を
大量に投入し、高い生産性を求めることに
全てを注ぎます。

当時の中国の国力からしたら、現実無視で妄想でしか
ない極端な計画でしたが誰も国家主席である毛沢東を
止める事はできません。

これにより、中国の農業と工業の大増産を目指したのが
大躍進政策でしたが、国力をはるかに超えた理想政策で
あり、後に大飢饉を招く結果になります。

これによって餓死者を中心に2000~5000万人以上
命を失ったともいわれ大失敗に終わっています。

発展途上の未熟な技術での製鉄産業に力を注ぐも
失敗し農具まで溶かす事態も起こり、知識も道具も
不足する農民たちに厳しいノルマを課すなどの現実無視
の計画でした。

ただこの頃の毛沢東の中国共産党での存在はそれこそ
「白いモノでも黒だ」と言えば、それに従う、と言う程
の存在。

反対したり毛沢東の計画にケチをつける存在は壮絶な
粛清によって死に至らしめていたので、もはや誰も
毛沢東にNOを言える人物などいなかったのです。

民衆に負担を強いる多くの政策に従う者は減り
経済が悪化し、食物も手に入らなくなったためでした。

それから毛沢東は「世界3大大量殺戮者」として、
ドイツのヒトラーやソ連のスターリンなどのように
独裁者の象徴とし歴史に刻まれることになります。

大躍進政策の失敗を毛沢東自身が認め、彼は
国家主席を辞任して一時的に権力を失い、代わって
劉少奇国家主席や鄧小平共産党総書記が実権を握る
ことになります。

こうして毛沢東が目指した大規模建設と農業増産
を中心とした大躍進政策は大失敗に終わります。

毛沢東の死から5年後中国共産党は文革を
「重大な災厄と損害、逆行をもたらした」と完全に
文化大革命の大失敗を認める発言をしています。

毛沢東の文化大革命の悲劇

大躍進政策の失敗によって混乱した国内経済を
立て直そうと、劉少奇国家主席や鄧小平共産党総
書記は市場経済を部分的に導入します。

この資本主義的政策を中国共産党主席だった
毛沢東が強く批判し起こした運動が文化大革命
(1966~1976)です。

共産主義に反する政策反対を掲げ、復権を狙う
毛沢東は、国家に逆らう過激派となった紅衛兵
呼ばれる学生や大衆を味方につけ劉少奇らの失脚を
企てたのでした。

「造反有理(反逆には道理がある)」

を掲げ、古い思想を打破するために建造物などを
壊したり社会を闘争の世界に変えていきます。

この時の大量の殺戮や内乱はすさまじいもので
1978年に開かれた中国共産党の会議で

「死者40万人、被害者1億人」

という推計が出されています。

文化大革命が終わった後も、その影響は広がりをみせ
世界各地で反社会運動や反政府運動が起き、若者の
米ソなどへの不満などの高まりを牽引するものとなりました。

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毛沢東がした殺戮は中国最大の悲劇

文化大革命における毛沢東主導の紅衛兵による
大殺戮は中国史上最大の悲劇であったと
言われています。

殺戮の対象は劉少奇ら中央指導部だけでなく、
教師などの知識人、中国国民党関係者やその
家族にも広がり、紅衛兵により徹底的に迫害
されたのでした。

他にも教会や寺院、宗教的文化財の破壊まで起こり、
僧侶の殺害や仏像破壊など激しい行為に及びました。

紅衛兵運動は全国の学生らや青年層に拡大し、もはや
個人崇拝の対象として崇められていた毛沢東は偉大
なる統帥などと皆から賛美され、異常なまでの勢いに
発展していきました。

毛沢東の政策は、中国の社会や経済、文化などに
大きな損害を及ぼしただけでなく、数千万人にも及ぶ
という殺戮の犠牲者を生んだことは今も世間から非難され、
人々に悲しい歴史を植え付けています。

中国最大の飢餓は人が人を食べた時代

1958~1962年の中国の大躍進政策によって、
餓死で少なくとも4500万人(スペインの総人口くらいの数に相当)
そのうち拷問や処刑死は250万人という人々が失われ
後に人災といわれ非難を浴びました。

当時の最高指導者、毛沢東による人民軽視の政策として
外貨獲得のため過剰な農作物の搾取が行われたことで、
農村では食料の異常なまでの不足に陥ります。

ある農村では飢えをしのぐために泥まで食べたといわれ
セメントのように固い泥のため腸が詰まり死に至る人も
多かったといいます。

最も行き過ぎた行為のあったという中国南部
広西チワン族自治区の武宣県で起きた粛清は
38人が食人の犠牲になったと明かされています。
(80年代初頭 公式調査)

毛沢東を崇拝した団体、紅衛兵らは「反革命的」
いう名目の元教師を撲殺した記録があります。

1686年に中学校の生徒たちが地理の講師を殴り
殺した後、遺体を川辺に運び、別の教師によって
心臓と肝臓を取りださせる事件があったといいます。

学校に戻った生徒たちは臓器を焼き食したといいます。

それらの行為は階級闘争の煽られた結果から紅衛兵
らが暴徒化した行為で増悪の表現として行われたと
されていますが、まさにその様は恐ろしく獣にも劣る
殺人行為だったと匿名で語られています。

エスカレートした行為は行き過ぎた暴徒化として
首切り、殴打、生き埋め、石し打ち、水責め、釜茹で
集団虐殺、内臓の抜出し、心臓や肝臓、または性器の
切り取り、肉のそぎ落とし、ダイナマイトでの爆破。

ありとあらゆる方法が使われ末に食人したと
いうのです。
文革50年、語られぬ「人肉宴席」中国:引用

「食べ物が十分になければ、人間は飢えて死ぬ。半数を餓死させてしまった方が得策だ。残り半分(の人)はたらふく食べられるのだから。」(同上著書88ページ)

という毛沢東の理想に走り、人心を失った発言も
見え、このような中国の地獄の時代を築くことに
なったのです。

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大躍進がもたらした人食の悲劇

そしてもう一つ、この文化大革命の10年に及ぶ
現実無視の大躍進政策によって多大なる被害を受けた
一番の被害者が民衆である事も忘れてはイケません。

毛沢東の大躍進政策は現代に続く中国経済の現代化
する為の政策だったと言われていますが、その為の
犠牲はあまりに大きすぎました。

農場から労働者を奪い鉄工業への重視を強制した
せいで食料生産人口が大幅に減り、中国最大の
大飢餓をもたらしました。

その飢餓で亡くなった民衆は3000万人とも4000万人
とも言われています。

そして、その付けを被ったのも何も持たない弱者
である民衆でした。

極度の栄養不足と通年の飢餓でなくなった我が子に
手を付ける民家が後を絶たなかったのです。

時に我が子には手を付けられず、近所の子供と
交換して人食して、残りのまだ幼い子供らと餓えを
凌いだといいます。

中国の諺に
「中国ではテーブルの脚以外は何でも食べる」
言われる諺があります。

僅か50数年前に、文革を経験した民衆にとって
何を食べても、もはや問題では無い
のかもしれません。

生きる為に飢餓で亡くなった子供にさえ手を付けて
餓えを凌いだ時代が、この文化大革命に起きた最大で
最悪の悲劇なのは言うまでもありません。

おわりに

共産主義による中国の発展を掲げ毛沢東が行った大躍進政策と文化大革命では、国の実態を押さえず人民軽視の先走った政策を独裁的に実施したために大失敗となり、歴史上類をみない大殺戮や、飢えのため人が人をたべるというむごい悲劇を生み、後世まで批判を受ける結果となりました。毛沢東のように国を豊かにしたいがために、国を支える民を苦しめる政治を堂々と行い、多くの犠牲を払った苦い過去を消すことはできませんが、同様の過ちはしてはならないということを世界中に伝えたともいえるでしょう。
決して平和ではなく戦争や天災、病気などの多い今日の脅威に、世界各国が必死に生きる道を探っていますが、指導者と国民が相反することなく、命が生かされる明るい未来を作る姿があってほしいものです。


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