愛新覚羅溥儀5人の妻との異常な夫婦生活!皇族の悪しき風習の犠牲者

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愛新覚羅溥儀アイキャッチ

中国の清朝最後の皇帝で、日本の傀儡国家で
知られる満州国皇帝になったラストエンペラーの
名を持つ愛新覚羅溥儀。

歴史に翻弄され波乱の生涯だったとされる中、彼の
嫁との関係や子孫が居ない事などから私生活の
特異さも話題となっています。

愛新覚羅溥儀の5人の妻とその異常な夫婦生活や、
王族の悪しき風習の犠牲者とされる真実について
お伝えします。

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目次

愛新覚羅溥儀プロフィール

氏名:愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)
別号:ヘンリー
出身地:清 北京市 (醇親王府)
生年月日:1906年2月7日
1908年:第12代清朝皇帝に即位(2歳)
1912年:辛亥革命(しんがいかくめい)により退位
1917年:張勲復辟(ちょうくんふくえき)により清朝皇帝に復位
12日後再び退位
1934年:満州国皇帝即位
1945年:満州国崩壊・皇帝を退位
1967年:10月17日北京にて死去享年61歳

愛新覚羅溥儀生涯5人の妻

愛新覚羅溥儀は生涯に5人の妻がいたことが
知られています。

溥儀の正妻の婉容(えんよう)とは溥儀が
16歳で結婚。

西洋的な環境で育ち聡明で美しい人物として
溥儀が自ら撮った当時の写真がかなりの数
残されています。

結婚当初は、仲も良かったようですが、結局
最後まで愛情を受けることが無かったと言われ
苦しみの末アヘン中毒になり生涯を閉じました。

第2夫人の文繍(ぶんしゅう)は、彼女が12歳で
結婚していますが、婉容のいじめにあい、自殺
未遂し家出、当時の皇族と結婚した妻として初めて
離婚した女性としても知られています。

その後も、満州時代に溥儀と結婚した3人目の
妻は譚玉齢(たんぎょくれい)で温厚で優しかった
といいますが、22歳で不可解な病死をしており、
日本軍の陰謀とも言われています。

4番目の妻は、李玉琴(りぎょくきん)で17歳で
溥儀の妻となりますが、明るく善良な人柄で当時
既にアヘン中毒で廃人と化した最初の妻、婉容の
面倒をさいごまでみたといい、戦後離婚し71歳で
死去しました。

5番目の妻は李淑賢(りしゅくけん)で、看護師で
戦後1962年56歳の溥儀と37歳で結婚。

溥儀にとって初めての恋愛結婚だったと言われ、
ようやく晩年幸せな時期を過ごしたといえます。

彼女は溥儀の死後彼の後半生記を書いています。

これら5人の妻がいながら、夫婦生活はほとんど
なかったことが知られており、5人目の李淑賢が
初恋であったというのには驚きますね。

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愛新覚羅溥儀と婉容と文繍に夫婦生活は無かった

愛新覚羅溥儀は2歳10ヵ月で皇帝の座についてから
11歳までに辛亥革命をはさみ2度清朝皇帝に就き
2度の退位を経験しています。

その後も彼は紫禁城で廃帝ながら優雅な生活を過ごし
16歳の時に正妻となる婉容、第二夫人文繍と結婚します。

クーデターで紫禁城を出て天津に移り3人の奇妙な
生活となるのですが、愛新覚羅溥儀と2人の妻との
間には夫婦生活が無かったと言われています。

婉容との結婚初夜に寝室を共にせず、その後も
性生活の記録はほとんどなく文繍も同様であった
ということがわかっています。

特に婉容は溥儀への愛が報われず苦しみ、アヘンに
溺れ果ては侍従と関係を持ち懐妊、女児を出産して
しまうことで溥儀の怒りをかい、婉容の相手となった
侍従を追放し女児を死に至らしめます。

溥儀は妻婉容の産んだ子の万に一つの可能性も信じず
「捨てよ」の一言で産まれたばかりの女児をボイラー
に放り込んで死んだことにしたと言います。

こうした溥儀の、あまりに無慈悲で残忍な行為に
婉容の心はどんどん壊れていきます。

そして当時の中国では、たやすく手に入るアヘン
身を亡ぼす事となるのです。

愛新覚羅溥儀は婉容との初夜がなかったものの、
その晩お気に入りの宦官(かんがん)と夜を
過ごした
といい、彼の若い頃からの異常な性生活が
続いていた衝撃の事実が明らかになります。

愛新覚羅溥儀は同性愛者だった

愛新覚羅溥儀は5人の妻がいるにもかかわらず、
実は同性愛者だったと言うことが伝わっています。

溥儀の初めての性体験は女性ではなく、14歳での
若い宦官によるものだった
と言われており、その後も
それは続き1945年の満州国崩壊まで同性愛者
だったとされています。

宦官とは、後宮の召使いとなるために去勢する
施術をした少年のことで、皇帝や后たちの身の
回りの世話をする官吏のことをいいます。

溥儀の皇帝としての夜の相手はもっぱら宦官の
美少年だったといいます。

溥儀のお気に入りは、王鳳池(おうほうち)という
美形の宦官に心奪われ彼の導きにより異常な性生活と
なったとも言われています。
(加藤康男「ラストエンペラーの私生活」幻冬舎新書)

宦官は古くは殷の時代から最後の王朝清の時代滅亡
まで3000年以上にわたり皇帝などに仕え生活全般に
奉仕し多い時は数千人を抱え、溥儀が北京の紫禁城を
去った時には470人ほどの宦官が宮中にいたようです。

去勢された宦官は一般に女性のように声が高くなり、
髭が落ちつるりとした顔立ちになるといい、若い頃
から溥儀は后よりも彼らを好んだと思われます。

つまりは、皇帝としての立場上、妻を何人もめとって
も溥儀自身は全く異性としても妻としても性的な欲求の
対象とはならなかったと言う事です。

また一応の妻に対しての礼儀として夫婦の行為を
しようと思うような性格でもなかったようです。

これらの溥儀の同性愛嗜好は、2番目の溥儀の
妻文繍(ぶんしゅう)の離婚後の発言でも最後の
妻である李淑賢(りしゅくけん)の発言でも明らか
となっています。

清時代の宦官と皇帝の関係

清朝時代の性については、宦官の伝記に溥儀が
多くの女官らによって様々な性の悪戯を教えられた
という記述が残されています。

宦官と皇帝が遊び相手でもあるような当時の
宮廷内の性的堕落の異常ともいえる因習が同性愛
となった原因とも言われています。

宦官は元々常に皇帝の近くに仕えるため、身の
回りの世話をするにとどまらず気に入られ、寵愛される
事で政治的な力を持つ者もあり、発言力を増していき
中国史に長く存在し大きな役目を果たしていきました。

彼らは幼い頃から皇帝の私生活を支え、特に幼少から
溥儀も身の回りの世話を全て頼りきっていたことは
容易に想像できます。

宦官は皇帝の心をつかみ、何でも甘い言葉で
意のままに皇帝を操るなどという場面は中国史
にも多く登場します。

性においても自然とハーレム化した後宮の私生活に
溺れる必然の文化であったといえます。

宦官との古来からの密接な関係を払しょく、
できなかった溥儀は、皇族の悪しき風習の
犠牲者ともいうことができるでしょう。

ただ善悪の判断も付かない幼い年齢から、自分の
いう事は絶対的存在としての力を持ち、それに
従ったであろう宦官らの関係を考えると、溥儀も
ある意味運命に翻弄されて、同性愛の道に踏み込んで
しまったとも言えると思います。

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愛新覚羅溥儀の最後の妻の告白

5年半の結婚生活で愛新覚羅溥儀の最期を
看取った5人目の妻である李淑賢

「溥儀は性的不能者で、治療も行っていた。」

と証言しています。

溥儀の死後、李淑賢が溥儀の波乱の生涯を
書いた著書を発売しますが、その中でもこの
事実は語られています。

短い夫婦生活でしたが、お互いが求めあって結婚
した溥儀にとっては初めての恋愛結婚。

李淑賢にとっても、既に50代後半を迎えた元皇帝
である溥儀は既に一般人の高齢の男に過ぎません。

当然、愛し合う二人が性的な行為に至るのは普通
の事ですが、溥儀のEDが原因で性行為が出来ない
事で二人は何度も喧嘩したそうです。

特に妻である李淑賢は当時まだ37歳。

健康的で一般の女性なら愛する夫との性行為は
求めてしかるべき行為だと言えるでしょう。

溥儀は実際EDで性生活は困難でしたが、離婚問題を
起こさないことが当時の毛沢東率いる、共産党の
基本方針だったため周恩来のはからいでED治療
行われていたといいます。

初めの結婚から妻との初夜もなく、子供も作らず
という溥儀でしたが早くからEDだった可能性が
あるということだったのでしょうか。

それとも妻への愛情はあるものの、幼き頃からの
風習として宦官との行為でしか性行為が成立しない
身体になってしまっていたのか…

今となっては知る由もありませんが、可能性的に
なかったとはい難いのかもしれません。

彼にとっては宦官との関係が長く安心できたので
しょうが、妻として迎えられた女性たちには大きな
不安をあおるものであったといえます。

正妻の婉容のアヘン中毒での激変を冷たく見捨て、
寵愛を受けられなかった文繍には離婚を迫られた
溥儀が本心を語ることができた相手は、最後の妻
李淑賢だけだったのでしょう。

中国最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)
は61歳の生涯で5人の妻をめとりますが、その誰もが
溥儀の子供をこの世に残す事はありませんでした。

その史実が何よりの溥儀の性的嗜好を表して
いるのかもしれませんね。

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おわりに

清朝最後の皇帝として名高い愛新覚羅溥儀は、5人の妻を持ちましたがその夫婦生活が異常で、正妻婉容や第2夫人文繍との夫婦生活さえほぼなく、宦官との関係にふけっていたことがわかります。
溥儀は同性愛者だったとも言われ、若く美しい宦官を好みましたが、中国の皇帝と宦官の密接な関係が歴史的に長く性的堕落を招いていたことから、彼も悪しき風習の犠牲者であったともいえます。
溥儀の最期の妻李淑賢の告白で、意外にも彼が性的不能者だったことがわかりますが、愛されなかった婉容らの苦しい胸の内が伝わりあわれさがより募るばかりです。


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