14代王宣祖ソンジョの生い立ちと秀吉の関係に庶民から疎まれた理由

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宣祖

李朝鮮王朝初の庶子として王座に就いた14代宣祖。

日本では戦国武将として名高い秀吉が朝鮮襲来の
時に時の権力者としてその座にいたのが朝鮮王朝
14代王の宣祖(ソンジョ)です。

宣祖と秀吉との関係と民から信頼を失った理由とは?

最後まで嫡男に拘った王が招いた結果は更なる骨肉
の争いを触発したように感じます。

今回は、朝鮮王朝14代王の宣祖(ソンジョ)の生涯
を追ってみました。

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目次

宣祖(ソンジュ)プロフィール

名前:李昖(イ・ヨン)
在位:朝鮮王朝14代王・宣祖(ソンジョ)
在任期間:1567~1608年(41年)
生年月日:1552年12月26日
死亡:1608年3月17日(55歳)
両親:父は徳興大院君(トグンデウォングン)
母は河東府大夫人
祖父は朝鮮王朝11代王の中宗(チュンジョン)

妻:正妃は懿仁王后朴氏(ウイインワンフ・パクシ)
継室は仁穆王后金氏(インモクワンフ・キムシ)、側室は9人
子供:25人(うち1人が、朝鮮王朝15代王・光海君(クァンヘグン))

宣祖(ソンジュ)の生い立ち

宣祖は、朝鮮王朝11代王中宗の九男である
徳興君(トクフングン)の息子
として生まれました。

徳興君(トクフングン)は中宗と側室の子で
いわゆる庶子。

本来であれば王位継承権とは程遠い立場で、
その息子である宣祖もまた王座とは無縁な
はずでした。

実際、宗祖は朝鮮王朝時代に李王朝で庶子として
王位に付いた最初の王でもあります。

その為に生涯その庶子として王位に就いた事に
コンプレックスを本人は持ち続け自身の息子で
ある王子への王位継承でかなり迷走する事に
なります。

宣祖の伯父であり13代王である明宗は12歳の
息子を亡くしており、また本人も元々病弱だった
ことと、それまでの心労が重なった事から僅か
33歳と言う若さでこの世を去ります。

その為、血筋を重んじる朝鮮王朝の王位継承者となる
世子の後継者が不在だったのです。

明宗と彼の正室の子はその亡くなった息子しか
いなかったため側室の子から後継者を選ぶことに
なったのですが、そこで次期王に指名されたのが
宣祖だったのです。

このような流れから1565年に正式に明宗の養子
として跡継ぎに任命され入ります。

1667年6月に宣祖が朝鮮王朝15代王に15歳で即位
しますがそれは国内での即位であり正式に認められる
モノではありませんでした。

理由は明の属国だった朝鮮王朝は全ての王の即位
に明の承認が必要だったのです。

結局は同年の11月に認められる事になるのですが
それまでの宣祖の妻である仁順大妃が10カ月に
満たない短期間を摂取します。

庶子出身で「自分には王位は関係ないな」
と思っていた宣祖にとっては伯父の明宗の死は
とても大きなものだったこととが想像できます。

宣祖と豊臣秀吉との関係

宣祖が朝鮮王朝14代王として君臨していたとき、
日本ではかの有名な豊臣秀吉が名を馳せまくっている
戦国時代でした。

1592年以降、朝鮮王朝は、そんな豊臣秀吉から
侵略を受けることになります。

朝鮮王朝では壬辰倭乱(イムジンウェラン)
呼ばれる事件で、日本では「文禄の役」と言われいて
いる出来事が勃発したのです。

朝鮮王朝が始まって以来、大きな外敵に襲われる
こともなく、実に平和に過ごしていた朝鮮王朝は、
激しい戦国時代を生き抜き勢いに乗った日本軍に
漢城府(現ソウル)を追われることになりました。

朝鮮王朝内では「秀吉は攻めてくるはず」
庶子である光海君など始め進言していた派閥は
あったのですが、宣祖は何故か一貫して

「攻めてこないはず」と意見した派閥の
意見に乗っかり耳を貸しませんでした。

一国の王として危険性があるとの報告や
意見が蔑ろにすべきではなかったのです。

結局、豊臣秀吉は攻めてこないという意見を
受け入れた宣祖は国防を疎かにしてしまい、
秀吉軍の進撃を許してしまうのでした。

その後に、朝鮮王朝にとって「救国の英雄」
である李舜臣(リシュンシン)によって
豊臣軍を退けることができましたが、敵国の
進軍を許した王である宣祖は今後も民から
厳しい目で見られることになるのでした。

それもそのはずです…

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宣祖が庶民から疎まれた理由

壬辰倭乱(イムジンウェラン)によって
ことごとく敗戦を強いられる状態となった
宣祖率いる朝鮮王朝。

倭国(日本)からの襲来に全くの備えが無かった
状態の朝廷に当時の勢いの豊臣勢に太刀打ちできる
理由などある訳がありません。

先ほどもお話したように、豊臣秀吉に攻め入られた
際に太刀打ちできずに漢城府を追いやられた宣祖は、
庶民から冷たい目で見られるようになりました。

それは何故かというと、自分たちや国を守って
くれるはずの王が、おめおめと外国からの進軍を
許したどころか、真っ先に自分だけ逃げていって
しまったからです。

当然、李朝鮮王朝を守る為には王の命を1番に守る
と言う考えも間違いではありません。

ただ宣祖が逃亡を図る時の逃げ方がまずかったのです。

何の予想もしてなかった民衆にとっても戦火を
逃れる為に河を渡り一刻も倭国が迫る漢陽(ハニャン)
から逃げたい一心です。

でもそうした民衆を目の前に宣祖ら重鎮がしたことは
自らが乗る船の目の前で、列を成す民衆が我さきに
と乗り込もうとする船に火を放って自分と直近らを
乗せた船だけで逃げて行ったのです。

この姿に民衆が怒りを覚えるのも仕方ありません。

どれだけ国民にとって良くない王でも、有事の際に
身を張って国を守ってくれたら民衆はある程度納得
するものです。

しかし宣祖は、国がピンチになったら自分だけ
逃げだしてしまう王だったので民からの信頼を
まるで受けることができなかったのです。

誰もが自分の命が大事なのはよくわかります。

しかし、宣祖は一国の王だったので、自分だけ
良ければいいという考えは決してするべきでは
ありませんでした。

一国の王として決してやってはならないことを
してしまった宣祖は、

「庶民を見捨てる王」

「自分だけ助かれば良い王」

として庶民から疎まれることになりました。

彼のように「庶子出身」の王は、より身近な身分
の庶民からの応援が必要だったのかもしれません。

しかし宣祖は「庶民からの真価が問われるタイミング」で
民を見放すような形になってしまい、庶民からの
信頼を失い、疎まれるようになってしまったのです。

宣祖のコンプレックス末代まで

前にもお伝えしたように、庶子出身の王である
宣祖は庶子であったことに大きなコンプレックスを
抱えていました。

「自分は民から正統な血統ではないと思われているかも」

と宣祖は常々大きな不安を抱いていたそうです。

確かに当時の朝鮮王朝では「血統」はとても
大事なものだったかもしれません。

しかし彼は王族に血を引いていたのは確かでしたし

「国を良くしたい」という思いがあれば、
そのコンプレックスは乗り越えられたように
思います。

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世子選びにも最後まで迷走した宣祖

結果そうした宣祖の思惑は自らの後継者となる
王子選びにも最後まで迷走した事実に現れて
います。

宣祖には最初の懿仁(ウィイン)王后との間にこそ
身体が弱く子供に恵まれませんでしたが側室である
恭嬪金氏(コンビン)との間に二人の王子が誕生
しています。

その息子こそ臨海君(イメグン)と二男の光海君
(クァンヘグン)
で後に15代王として光海君が
選ばれる事となりますがその即位もスムーズなモノ
ではなく最後まで宣祖は側室の子だった光海君の
即位を拒んでいました。

その理由こそ光海君もその兄臨海君も側室から
産まれた庶子の子供だったからなのです。

コンビンより後に側室として朝廷に入ってきた仁穆
(インモク)が後に王后の座に付いた事からインモク
王后の間に誕生した永昌大君(ヨンチャンデグン)を
産んだ事で一気に正式な王位継承として永昌大君
(ヨンチャンデグン)を命名していたと言います。

それでも結果、宣祖の思惑とは違う庶子の子である
光海君が15代王として即位した事には理由があります。

まず宣祖待望の嫡子である永昌大君(ヨンチャンデグン)
が誕生したのは1606年宣祖が54歳の時です。

年老いてからの待望の嫡子故、迷わず当時既に20歳
だった光海君よりも誕生したばかりの乳飲み子にも
関わらず永昌大君(ヨンチャンデグン)に王位を譲る
と考えていました。

でも宗祖が亡くなるのは、その僅か2年後の1608年
56歳でこの世を去る事となります。

幾ら嫡男とは言え僅か2歳のヨンチャンテグンが
即位して摂取を行う事など不可能です。

そして何より光海君は秀吉の朝鮮襲来の宣祖が
首都の漢城府(現在のソウル)から民衆の罵声と
石を投げられる様で逃げるように都を後にした後
その後始末を見事にこなしています。

戦火の中、光海君は倭国の対応にあたり1598年の
豊臣秀吉が亡くなり朝鮮からの撤兵するまで国内の
復興に尽力した功績もあり、王位を継承する
事になるのです。

なお光海君の兄である長男の臨海君は気性の荒さと
問題児だったこと、秀吉の朝鮮襲来で人質となった
経験が彼のその後の生活が荒れた自暴落な生活ぶり
だったことから世子として不適格とみなされました。

自身が庶子だったことから大層なコンプレックスを
生涯持ち、それゆえ自身の嫡男に王位継承をと強く
願った宗祖ですが結局は、そうした彼の曖昧な思想が
もたらした結果は、その後の光海君の不運な運命を
導いてしまったのかもしれません。

世子としての本質とは何か?

少し考えたら光海君が世子として適正人物だった
のは明らかでしたが、それを見抜く事は宗祖には
出来なかったのです。

国王としての国家の危機に際して身を挺する覚悟
も持てなかった宗祖の摂取は結局は後の朝鮮王朝の
不の連鎖の引き金となり、さらなる骨肉の争いを
生みだしたとしか思えません。

おわりに

もともとは庶子で王位継承権から程遠かった宣祖。
突然の即位で様々な責任がのしかかってきたことは、彼は彼で「こんなの知らないよ」と思っている可哀そうな男性だったのかもしれません。
しかし、一国の王として君臨した以上はコンプレックスに押しつぶされている場合じゃなかったのは確かです。
宣祖が運命に翻弄されたのは確かですが、コンプレックスを克服して「王」としての役目を全うする覚悟があればこんな庶民から疎まれる王として名を残さなかったかもしれませんね。


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