野口英世について知られざる一面は超絶女好き放蕩癖の裏の顔

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野口英世アイキャッチ

日本が誇る細菌学者としてその名を残している
野口英世を知らない人はそうは居ないはず。

千円札にもなっている人野口英世のもう一つの
裏の顔には女遊びの激しい放蕩三昧野郎だった
事がリアルに語られています。

金があれば豪遊、無くなれば借金を繰り返して
いたのだとか。

また、有名な黄熱病研究は実は失敗だった
事など調べてみました。

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目次

野口英世は学問で身を立てる為勉学に励んだ幼少期

 

野口英世は、幼い頃に囲炉裏へ落ちて左手の
指が全部くっつくほどの大やけどを負い、左手の
自由をなくしてしまったというのは有名なエピソードです。

 

母親のシカは、自分の不注意で息子英世の左手の
自由を奪ったことを酷く悔やみ、将来は農家ではなく
学問で身を立てろと教えます。

その言葉通り、母は懸命に働き、英世を小学校へ
通わせ、英世も母に励まされながら優秀な成績を修め
高等小学校の教頭小林栄に認められ、学費の援助などを
受け、英世にとって小林栄は生涯の恩人となります。

15歳の頃に、左手の障害について書いた作文が
きっかけとなり、募金を募ることが成功し、手術を
受けて左手が少し自由を取り戻します。

高等小学校を卒業した英世は、手術を担当してくれた
開業医の渡辺鼎(かなえ)の許で医学の基礎を
学び始めます。

そこでもう一人の生涯の恩人、歯科医の血脇森之助と出会います。

野口英世の裏の顔?金と女と借金との三拍子!

 

1896年、英世は医師免許取得のために
恩師小林栄らから多額の援助を得て
試験の為に上京します。

 
医師試験は筆記試験と臨床試験の二段階に
分かれていて、英世は筆記試験は難なく
クリアします。

ただ問題なのは、この一段階目の時点で既に
滞在費用の大半を女遊びで使い切っていた
というのです・・・

田舎から出たばかりで、東京での遊びの魅力に
ハマったいうところなのでしょうけど、この頃から
遊び人の片鱗を見せていたようです。

その後、金が尽きた英世は、血脇の許で居候しながら
勉強し、翌年21歳で二次試験も合格しました。

二次試験には、打診の実技試験もあるため、血脇の
心遣いで2度目の左手の再生手術を受けていますが
これがなんと無料で手配してもらったのだとか。

医師免許取得した後は、医学の道にまい進する一方
金が入れば酒をあおり、遊郭で豪遊して朝帰りを重ね
金欠になると借金を繰り返すという生活だったそうです。

そんな英世を支えていたのが血脇でした。

英世に無心されれば身銭を切る血脇に、周囲からは
英世を悪く言う者が増えていきます。

しかしそんな周囲に血脇は、

「野口は稀代の天才だ。型にはめるのは彼の天分を損ねる」
 
と言ってたしなめ、英世を支えたといいます。

 
英世が横浜の海港検疫官を務めていた頃、英世は
横浜港に入港した船の船倉で、日本時として初めて
ペスト菌を検出し、その功績を認められて清国への
派遣が決まります。

その派遣のための支度金が支給されますが、瞬く間に
借金取りに回収されて一文無しに戻ったそうです。

困った時に英世が縋りつく相手は血脇です。

血脇は妻の着物を質に入れて金を用立てて英世の
渡航費用を捻出したそうです。

清国に向かう途中、下関に寄港した際に英世は
「今宵は大いに飲もう」と、一同を一流料亭に誘いました。

誘いを受けた一同は英世のおごりだと思い散々飲み食い
したのですが、いざ勘定を払う段になると、肝心の英世が
居なくなっていたそうです。

英世が「食い逃げ」を試みたのです。

結局一同で割り勘してその場はしのいだそうですが
後で英世を問い詰めても

「悪い悪い、眠くなったのでお先に失礼した」
 

などと、軽く返したといいます。

意外にも強心臓の持ち主だったようです・・・

 
また、1900年に念願の渡米を控えた際、相変わらずの
放蕩三昧で一文無しの英世は、箱根の温泉地で
知り合った資産家筋の娘、斎藤ます子との婚約を機に
手付金三百円を借り受けて留学費用を作ります。

 
しかし渡米前日に英世は検疫所の同僚と一緒に遊郭で
どんちゃん騒ぎをして、留学費用を一晩で使い切ったのだとか。

そしてまたしても血脇に泣きつく英世。

血脇は頭を抱えながら、生まれて初めて高利貸しから
三百円を借りて英世の留学費用を用立てたそうです。

さらには、斎藤ます子との婚約も破談になり、手付金の
三百円を返金したのも血脇だったといいます。

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野口英世のアフリカ黄熱病研究は失敗だった?

 

随分とだらしない経歴ばかり紹介しましたが
しっかりとした功績も残しています。

 
アメリカのペンシルバニア大学医学部で助手として
働き、毒蛇の研究に携わり、その研究論文はアメリカ
医学界から大絶賛を受けました。

 
そしてデンマーク留学後に、アメリカのロックフェラー
医学研究所の一等助手として迎えられました。

「日本人は、いつ寝るのか?」

と言われるほど研究に没頭したそうです。

 
1911年、梅毒スペロヘータの純粋培養に成功し
京都大学から医学博士の学位を、1914年には
東京大学から理学博士の学位を授与されています。

 
その後1915年には一時帰国し、母シカとの
親子の時間を過ごしています。

 
1918年に、ロックフェラー財団から、黄熱病の研究要請を
受け、エクアドル、メキシコ、ペルーへと廻ります。
 

野口英世の功績として有名なのは、アフリカでの
黄熱病の研究です。

一番有名ではあるのですが、この研究は失敗に終わっています。

 
黄熱病は、アフリカや中南米で蚊に刺される事で
黄熱ウィルスに感染して発病、死亡率が30~50%と
非常に高い、現代でも恐ろしい病気です。

 
野口英世自身も1928年5月、アフリカ・ガーナの
都市アクラにて、志半ばで黄熱病に感染し命を落としました。

 
失敗した理由としては、当時から黄熱病はウィルスに
よるものとして研究者の間で囁かれていたのですが
英世はスピロヘータという細菌であると発表してしまったのです。
 

黄熱病によく似たウィルス病と間違えたことが原因とされています。

野口英世がお札に選ばれた理由は

 

野口英世は2004年の新紙幣から1000円札の
肖像画として選ばれています。

 
肖像画に選ばれる条件は

「世界に誇れる功績」

「知名度」

「特徴的な顔立ち(偽造防止の観点から)」
 

というものが挙げられており、野口英世はといえば

「世界を飛び回って細菌研究で活躍した功績」

「野口英世の生涯を描かれた小説や映画『遠き落日』などで知名度あり」

「天然パーマを七三分けしたような特徴的な髪型、あとヒゲ」
 
と、条件クリアしているのでしょうね。
 

ロックフェラー財団で研究して成果を
残していたという事もあって功績は文句
なしの部類になるのではないでしょうか。

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おわりに

意外過ぎる教科書には載ってない野口英世の裏の顔は、女遊びが酷くても大きな功績を残したのは解りますが、この記事を書いてるうちに、放蕩三昧の英世を金銭面で支え続けた血脇森之助の方がお札に向いてるような気がしてきました。一つの事に秀でた人物というのはどこかバランス感覚がぶっ飛んでいるのかもしれませんね。それにしてもうまい事それらをフォローしてくれる人脈が出来るのも天才の言われなのかもしれません。個人的には関わりたくないタイプですが、相当の人格者でなければ無理なのでしょう・・・


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